2009/05/05 22:27
テーマ: カテゴリ:趣味・特技(その他)

ゴールデンウィーク

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連休中、また友と共に友のところに遊びにきてしまいました。天気は曇りですっきりしませんでしたが、緑に囲まれて癒されました。今は友の職場の友と一緒にお酒飲んでいます。初めて会う人だけど、専門は違うけれどたくさんしゃべりながら楽しくしてます。

昨日は山も歩いてきました。ゴールデンウィークだというのに、歩いている間に出会った人の数は5名です。ETCが1000円だということで高速は大変な渋滞になっているということをTVで見ました。よかった(・。・)静かで。

温泉に入って、だらだらして、お酒飲んで、歩いて、写真撮って・・・。なんとものんびりしたお休みでした。職場はスタッフたちががんばって働いているのだろうな・・。お土産買って帰らなくちゃ。

    

今一緒に飲んでいる友の友(先輩?)の一人は、新型インフル関係で休み中に呼び出されたそうです。もちろん、何もなかったそうですが、世界中が敏感になっていたもんだいですものね。正確な情報、正確な知識がないと情報に踊らされ、振り回されてしまいます。過剰に反応してしまう人もいますものね。

  


ビールとワインで少し酔っていますから、今日はとりあえず詳しいお話はなしで終了します。


今日の写真
タイトル下は那須の板室温泉の鯉のぼり
那須高原(?)で自然食レストラン「創造の森」
那須の山の中の川


2009/04/29 22:14
テーマ:日常 カテゴリ:趣味・特技(その他)

新緑

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今日4月29日は「昭和の日」です。以前は「みどりの日」でしたが、2007年に変更になったのですね。「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和
の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」ための日なのだそうです。
天皇が裕仁氏から明仁氏に継承されたのを節目にしていますが、時間は連続しているものですから、自分の中にはその境は明確にあるわけではないように思います。しかも、私の人生は昭和と平成はほぼ同じ年数を過ごしており(ちょっと昭和が長い)、諸行無常的に毎日が変化して今があるという感覚です。

歴史の中の一時代という大きなスパンでみると“昭和”というのは「激動」なんですね。鎖国を解いた日本が世界と関わりを持ち始めた明治。ところがいろんな国とうまく関係を作れず、軍人、民間人問わず皆が戦さを体験し、荒れ果ててしまい、その社会を回復させてきた時代が昭和・・・かな。
歴史としては直近なのに、年号が変わると遠い過去に感じてしまいます。それではダメで、現在に直接繋がるものとして考えなければならないという意味でこの日ができたのでしょうか。
つまり、今起きている出来事は昭和と繋がっているのだ・・・と考えてみればいいのかしら?

     

私が最近気になるのは、親が子供を傷つけるニュースが多いことです。叩かれる、熱湯に入れられる、食べられない、立たされる・・・。そういうニュースを耳に、目にすると胸がものすごく苦しくなってしまいます。耳をふさぎ、目を覆い、チャンネルを変え、これ以上知りえない状態を作りたくなります。
子供が愛しまれないのは現在の何がそうさせているのでしょう。
私は激動の時代を過ぎて豊かな生活を手に入れてしまったことがひずみをおこさせているように感じます。心身の苦労や不便を経験せずに過ごせることは、小さなストレスをも乗り越えられないということになります。子供は何もできないということを知らない大人、子供と接することは苦労や不便であるということを理解しない大人が多くなってしまったのかなと思います。スイッチを操作するように子供を「しつけ」という言葉で思い通りにしようとしているのかなあ。うまくいかなければ壊してしまう??
私は子がいないのでこんな偉そうなことを言う資格はありません。でも、どのような親であっても逃げるということを知らず、生きていくとはそこに居続けることでしかなく、その結果傷つけられ続ける子供がかわいそうになります。

豊かさとはなんでしょうね。昭和の時代の復興とはなんだったんでしょうね。物を手に入れることに夢中になって、人の本質を見失っていったように感じてしまうこの頃でした。

 
新緑が美しいこの季節。公園では多くの子供や親子が遊んでいました。こんな風に汗を流したり、太陽や緑を感じながら駆け回って成長していける環境がどんな子にもあればいいのにな~って思いました。転んでも、泥んこで汚くなっても無邪気で楽しそうです。
中学生くらいの子が3名で傘をバットがわりにして野球もどきをしていました。こんなのもいいなって思います。野球はチームと道具があって試合をする・・・ということに囚われていないからです。なければないなりに楽しむ方法を自分たちで工夫していますもの。遊び方や道具、場所や時間、仲間までを与えらたら便利ですが、それじゃあ考える力は育ちません。また、何か一つでも欠けたら遊べないという子供で成長すると、誰かがいつもお膳立てしなければ生きていけない人間になります。それは自分以外の人間が必ず自分が嫌な思いをしないようにしてくれることを望むということだと思います。


友に聞いた話です。
電車の中でお揃いの服を着た親子(父子)に出会ったそうです。その子供(3歳くらい)が父親に向って「お父さん、怒らないで」と何度も頼んでいたとか。他の乗客皆がびっくりしたような顔をしていたそうです。
彼らが降りるとき、親子が別々のドアから降りたそうですが、子供の方がそれに気がついて(?)もう一度、電車に乗って父の降りたドアから降りなおしたとか。その後、父はその子を叩いたり蹴ったりしたそうです。
私の友はそれを見ていて、なぜ子供が怒られたのかわからなかったそうです。はぐれてしまうのがいけないのなら、子供の行動を見て父が一緒のドアから降りてあげればいいし、子の手を引いて降りればいいのにと思ったそうです。ペアの服を着ていても、何か釈然としなかったそうです。

    


木々の新芽が太陽に照らされてキラキラとしていた今日、私は友と街ブラをしました。欅が並ぶ通りの下はイベント会場になっていて、人がワサワサ。
よく見ると「リトル韓国」という看板があるじゃないですか。テントではチヂミやトッポキなどが売られており、いいにおいが立ち込めていました。
お昼には歌手のRYUさんが見えて冬ソナの曲を歌われたそうです・・・が、知らなくて聴けませんでしたΣ(T▽T;) ぐわわぁぁ~ん!

  


2009/04/14 04:21
テーマ:日常 カテゴリ:趣味・特技(その他)

私のお気に入り

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NHKの番組をわりと良く見るほうだなと思います。BSハイビジョン特集とか、ドラマとか、コンサートとか、ドキュメンタリーとか、教育や趣味番組も・・・。

最近のお気に入りは『カシャッと一句!フォト575』です。写真に句をつけて紹介する番組なのです。ぐふっ(* ̄m ̄)と笑ってしまう作品から、ほ~w( ̄o ̄)w というものまで、いろんな方のいろんな視線の写真と句。楽しいですよ。!いつか私も・・・。歌が詠めないなあ。

そういえば、4月18日から土曜ドラマに坂崎磐音が帰って来るわ。『陽炎の辻3』がはじまるんです。あの陰のあるかっこいい磐音が好きです。

以前から好きな番組に『ピタゴラスイッチ』があります。15分(ミニは5分)しかない教育テレビの子供番組なんですが、実におもしろいです。たぶん「繋がりを考える」がコンセプトなんだと思います。携帯サイトもあって、私はマイメニュー登録しています。

中でも「10本アニメ」が最高に好きです。↓ここで少し見れます。

http://triumph.blog14.fc2.com/blog-entry-268.html

なんともかわいくて、オチもあって、はまってしまいませんか?
上のタンポポの写真はこの10本アニメを想像して選びました。

  


今年は『ヤッターマン』が実写版映画で公開されました。タイムボカンシリーズは私の子供のころの定番アニメでした。リメイクされてテレビアニメの放送もしているようですね。今は見ていませんが・・・。

アニメの実写版映画で『ドラゴンボール』も今年公開されていました。もちろん見てはいませんけど。
私、テレビアニメ版の『ドラゴンボール』が大好きです。あの架空設定が面白いし、孫悟空のやさしさと強さと素朴さがいいというか・・・。登場するキャラクターとその名前もユーモアたっぷりで好きでした。でも『ドラゴンボールZ』になると戦闘場面が多くて嫌だなと思うことがありました。なので『ドラゴンボールGT』は全く見ていませんでした。絵もごつくなってきたし・・・。
先日、YouTubeで「GT」の最終回、孫悟空が消えていく話を初めてみました。孫(マゴ)までいる悟空がなぜ子供に戻っているのかはわかりませんが、多くのZ戦士ファミリーができたのだなあと懐かしい気持ちで見ました。

ん?なんか『太王四神記』のラストと似ている・・・
どうも邪悪なものたちによって地球が破壊されそうになったのを、孫悟空が元気玉を使って倒したようです。元気玉は生きているものたちから少しずつ分けてもらったエネルギーで作ります。
シェンロンというなんでも願いを叶えてくれる龍(ドラゴンボール7つ集めると出てくる)が「お前たちはドラゴンボールに頼りすぎた。だからもう消えてなくなる。」と言いました。
悟空はシェンロン(龍)に「最後に破壊された地球を人間が自分たちの力で再生していくからみんなを生き返らせて欲しい」と、頼みました。
その後、悟空はシェンロンと共に空へ昇っていき、どうも消えてしまったようです。
それを見送っていたトランクスがパンちゃんに向って「俺たちは試されているんだ。これから何にも頼らずに俺たちの力でこの地球を、この宇宙をよくしていくんだ。」と言っていました。

タムドクが消えていったシーンとダブったのは私だけでしょうか。

ドラゴンボールGTの最終話:前半と後半
http://www.youtube.com/watch?v=hd7RAYOIJUc

http://www.youtube.com/watch?v=hxSETnIO30w

  

3月の終わりに佐藤竹善&風味堂のライブに行きました。私のお目当ては風味堂だったのですが、私の両隣りに座られていた方たちはお二人とも竹善さんファンでした。
私は久々のライブコンサートであったのと、はじめての生・風味堂だったこともあり興奮でした。渡クンの熱いピアノと優しげな声に魅了。

↓風味堂の新曲「大切にするからね」
http://www.youtube.com/watch?v=uUrq3HMWUHU


↓渡クンが大好きだという竹善さんの「Spirit of Love」
http://www.youtube.com/watch?v=nmIGB7PO8kI

上の歌、どちらも聴けて満足しました。また行きたいなって思いました。
隣にいた方が、竹善さんは笑うと江原さんに似ているって言ってたのでじっと顔を見ていたら・・・似てる・・・。

 
哀しみと 歓びの波間に
 流されない 夢を抱く
 険しさも 微笑みの欠片に
 いつの日か 続いてく
 
                       【Spirit of loveより】by佐藤竹善

  


最後に♪My Favorite things♪と言えばあの曲ですよね。
いろんなアレンジがありますが、私が好きなのは熱帯ジャズ楽団のものです。かっこいいです。
彼らの演奏はネット上で探せなかったのでコピーの演奏を貼り付けます。

http://www.youtube.com/watch?v=Jfy0kGLRU1E

見つけてビックリなんですが、これを演奏している「Groovy Jazz Orchestra」って私の古い友人も入っている地元のアマチュアアバンドです。


2009/04/12 13:40
テーマ:仕事 カテゴリ:趣味・特技(その他)

桜花 咲きかも散ると・・・

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桜花 咲きかも散ると 見るまでに
    誰(たれ)かも此処(ここ)に 見えて散りゆく  

          
 柿本人麻呂歌集  【万葉集 第十二巻・3129】
 
桜の花が咲いたと思うとすぐに散っていくのを見ているようだ。
誰かがここに見えたかと思うと、またすぐにいなくなってしまうのが。


この歌は、旅人がある場所で出会っては別れていくようすを桜の花にたとえているのだそうです。「散りゆく」という言葉には寂しさや悲哀が込められているのでしょう。「ここ」で見た風景ではありますが、人の一生での出会いと別れのはかなさを感じます。
この短い言葉からたくさんのものを想像して、その景色や詠んだ人の思いを自分の心に引き込むことができます。つまり、この言葉の羅列は単なる現実の写しではなく、人の体験した世界の表象であるということがわかります。


 

私は以前から自分の体験を言葉にすることについて興味がありました。特に仕事においては職人を自負する私ですから、技術は目に見える行為のやり方だけでは説明できないと思います。つまり、私の仕事は「客観」という表現だけでは伝えられないのだということです。

今年の1月に私は“ナラティフヴ・アプローチ”という研修を受けにいきました。
“ナラティヴ”というのは「物語・物語る」という意味で、ナレーションやナレーターと同じ「語るnarrate」を語源としています。「語る」行為より「語られた」内容に重点をおいているようです。
「ナラティヴ」は時間の流れを持ち、登場する人や物の空間的な関係を説明します。しかし、連続して起きたことや登場させるものは語り手によって前後したり、省略されたりします。また、語りは語り手が聴き手に向ってする行為で、内容は個人が何をしたかだけでなく何を感じたかも含めたものになります。そして、聴き手はストーリーを自分でイメージしながら登場人物のひとりとして追体験できる特徴をもちます。ちょうど小説のように。
つまり、ナラティヴは語り手の自伝ストーリーであるということだと思います。

昨日の私を言葉にしてみます。下記の2つは同じ出来事ですが、明らかにイメージが違うと思います。

①昨日の朝、私は桜の花を撮影するために出かけました。写真は約500枚撮れました。

②私はお天気に誘われて、早朝からカメラを持って出かけました。気がつくと500枚近い写真を撮影していました。それは、青い空を背景にした桜花が美しく、夢中でシャッターを押し続けたからです。

①はただ事実を羅列しただけですが、②は出来事や登場するものをつなげる筋があります。登場するものに「どのように」「どうして」「なぜ」という意味づけがされているということです。人の体験したことですから、何に感じたのか、何を考えたのかがあった方が、同じ事実の伝達でも理解しやすいわけです。私たちがニュースで痛ましい事件を聞いた時、「なんでそんなことしたのか」「その人はどんな人なのか」ということも知りたくなります。それと同じことだと思います。

  


私は研修を受ける動機と研修後の感想を下記のように書きました。

「目に見える技術や記録として残された看護は、看護師から発信された最終的な結果なのだと思う。人が生きることは感じることであり、看護が看護師という人によってもたらされるものならば、その人が患者に巻き込まれて感じ、考えたことがケアの始まりなのだと思う。参考書には載っていない看護を支える自分の内にあるものを表現できるようになりたいと思っている。」

「私たちは日ごろ、情報、根拠、エビデンス、マニュアル、客観的、成果などという科学が生んだ言葉に囲まれて働いている。科学はデータの普遍性を追究するもので、そこに科学者としての個人は存在しない。現象を細かな分析や全体から統計学的視点で意味づけて、できる限りの絶対性を求めているように思える。しかし、個人におきたことは統計的な数値には当てはまるものばかりではなし、すべてが可視化されるもとも言いがたい。もしかしたら、何パーセントかの確率で絶対からはずれることがあるかもしれない。ナラティヴは一回しかない出来事を個人の経験として意味づけていく過程であると理解した。科学がどうしても捨てなければならない人間個人を表現できる方法であると思った。」


後輩たちに伝えなくてはならないのは、知識や手順ではないように思っています。また、人が成長していくには芯となる哲学というか、各々自分を支える土台がないとせっかく学んでも絵に描いた餅になるようになってしまうのではと思います。
私が伝えられる共通する考え方の一つは科学的方法から導かれたものかもしれません。しかし、人間と人間のつきあいを仕事とする医療の技はそれだけではないと思います。かといって、「こうである」と主張できるものをもっているわけではないので、日常の中で少しずつでも話せるようになれればいいし、伝える手段としてナラティヴという方法を学んでみたかったのです。

  
  


茂木健一郎氏の『クオリア降臨』という本を少しだけ読みました。「クオリアqualia」というのは青い空を“青い”と感じること、豆腐を口にいれた時にツルンやひやっと感じること、風が皮膚に当たった時にくすぐったいように感じること・・・などのようなことらしいです。神経細胞が電気的信号で脳に送る情報が統合されてできた感じというか、体験ということかな(詳しくは茂木氏の「クオリア・マニフェスト」というサイトにあります)。ムズカシイ(゚-゚;)

『クオリア降臨』は芸術に包括されているクオリアについて述べられているのだと思います。その《科学と文学の間に》に下記のような文がありました。

生の体験の一回性の中に、この世界の成り立ちに関する普遍的なるものの感触が忍び込んで来ている。すぐれた科学の成果と、良質の文学の味わいには、何かが共通している。両者が提示する「世界はこうなっている」「人間はこんな存在である」という世界知の由来するところは、実は同じなのではないか。その言葉にならない、一つにつながった感触の山脈を、私たちは「科学」とか「文学」といった、人為的な分水嶺で分けようとする。



私は自分の体験を自分の語彙の中からでしか伝えられないので、普遍性のあるものではないかもしれません。でも、聴き手側に私の語りと共通する部分があったとしたら、とても嬉しいでしょう。通じ合えるものがあるってことだから、「これでいいんだ」という自信にも繋がるし、共通する人が多かったらエネルギーのあるチームになっていくと思います。ちょうど、WBCのサムライJAPANのように。
もちろん、語るのは私だけでなく、後輩や同僚、先輩などなどいろんな人であることが大切だと思います。


オバマ米大統領の就任演説は米国民のみならず、日本の人々をも惹きつけました。全文が翻訳されるほどでした。
彼の演説が理解しやすかったのは、自分の過去やアメリカ(我々)の過去を語って現在につなげたからではないでしょうか。アメリカの国民は共感するものがたくさんあったのだと思います。共通感覚を得た人々はアメリカでおきていることを自分のことであると受け入れて、私もがんばらなくてはという気持ちをおこさせました。そして、そのエネルギーはオバマ大統領に集約していったと思います。言葉を伝える大切さをひしひしと感じましたね。



  

ナラティヴ・セラピーは「言葉が現実をつくる」「言葉が世界をつくる」という考え方が元になっているそうです。言葉がなければ世界を伝えることができないのだから、言葉で世界を表現しているという意味においてはわかりやすいと思います。でも、世界があって言葉があるのではなく、先に言葉があって、その言葉が世界をつくっていく・・・つまり、別の言葉で表現したら世界は変わってくるということなのだそうです。現実が変わるというのではなく、自分の認識が変わるってことかな。

言葉(名前)は見えるもの、見えないものすべてを表せるように、新しいものが出るとかならずどう呼ぶかを後からつけています。しかし、ついた言葉はただの記号としての発音として存在するのではありません。言葉に付随したイメージは限りなくあるでしょう。
例えば“ペ・ヨンジュン”。彼を指し示すわけですが、この言葉を聞いた人の認識はどんなものがあるでしょう。好意的にプラスのイメージをする方ばかりではないし、言い方によっては私たちカゾクを斜めに見たイメージを指すものになるかもしれません。
文章になったらどうでしょう。
 ①ペ・ヨンジュンは車を運転しました。
 ②ペ・ヨンジュンは車で出かけたようです。
 ③ペ・ヨンジュンは車から降りてきました。
3つとも同じ現実を語っているとします。①だと「出かけられてよかったね」と肯定的に考えるでしょう。②だと「どこに行ったの?ホント?」と思うし、③は「誰か会った人がいるんだ!」と少し複雑な気持ちになります。このように言葉の綴りによって現実の認識っていろいろに変化するのです。


私は今自分がここにある意味づけをするために、自己物語りを創造してみようとしまいした。自分が主人公の物語、セルフ・ナラティヴというそうです。・・・が、以外とうまくできないんです。家族構成とか出身とか客観的な情報と言われることは出てきます。昔の出来事も写真を見たりすると情景は断片的に思い出すことができます。しかし、何に感動して、何に刺激されて、何に傷つき、何に喜んだのか。誰と出会い、別れて、何を手に入れて、失ったのか。そういう経験を綴って今の自分との繋げる“意味づけ”ができません。o(´^`)o ウーなんでだろ。

自己を語る意味は自分の存在を確かめることになります。なんとなくそこにある自分では輪郭がぼやけて不確かなものになりかねないのだそうです。自己語りは繰り返すたびに筋書きが変化するかもしれません。現在の自己認識が変わると未来の自分も新しく創造することができます。不安定で不確かな自分になったら、セルフ・ナラティブヴしたらよいのかもしれません。

もし、自己を物語ることがうまくできないのなら、ストーリーを引き出して、筋立てしてくれる良い聴き手を探すことかもしれないって思いました。「どうなったの?」「どうして?」「何があったの?」など、聴き手として物語を追体験しようとする会話が断片的な出来事を埋める質問をしてくれるのではないでしょうか。
よーし!!私もそういう相手を見つけようっとp(・∩・)q


 


ま~た長い記事になってしまいました。1月から考え溜めた私の頭の整理箱的なブログだわ。

写真は青空の下で撮影した桜たちです。多くは散っていましたが、枝垂れ桜がいくつかちょうど満開をむかえていました。青空を背景にすると、桜色が映えます。








2009/04/05 05:37
テーマ:仕事 カテゴリ:趣味・特技(その他)

射光

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新年度が始まって数日が経ちました。学生の内定取り消し、雇用契約の中途打ち切り、新規採用を控えたり中止したりといった厳しい状況の元でのスタートのところが多いのだと思います。私の職場は相変わらず1年を通して職員募集するようですが・・・。


昔の日本型経営は、従業員を家族ととらえてみんなで会社を支えていくという考え方だったそうです。社会を構成する最小単位は家族であり、企業であるわけです。その小さな社会の中でみんなで人を育て、企業を盛りたてていきました。経営者だけでなく雇用者も「私の会社」という気持ちがもてる組織であったのかもしれません。育った人は終身雇用と言われた制度、つまり従業員によほどのことがない限り定年まで雇用できるという慣行によってずっと企業にとどまりました。勤続年数に応じた賃金や役職という考え方もあったのでしょうね。でも、突拍子もない大金持ちはでず、皆中流意識でした。

90年代になって、グローバル化した社会の中で日本企業は、世界の経済競争についていくために日本型経営からアメリカ型経営になっていきました。それは、競争原理に基づいて能力を客観的に評価した成果主義的な社会です。業績を数値で表わし、何よりも企業の利潤が大切とされてきたようです。作業の標準化および専業化、統一規格、大量生産、コストの低下などがされ、人材も数というもので計算されるようになったように思います。利益の上がった企業やその経営者は儲かるようになり、経済格差がみられるようになってきたそうです。

平成16年に労働派遣法が改正になりました。“厳しい雇用失業情勢、働き方の多様化等に対応するため、労働者派遣事業が労働力需給の迅速、円滑かつ的確な結合を図ることができる”ように改正されたのだそうです。企業が直接雇用しない派遣という形で働く人が増加したということかな。
私はTVのドキュメンタリーなどを見ていたとき、人が物のように扱われているようで怖かったです。確かに派遣社員は大きな責任に繋がる仕事ではないかもしれませんが、人数で計算されてしまうのかと思うと寂しさがありました。また、日本型経営の特徴のひとつに企業ごとによる労働組合がありましたが、派遣は派遣先の組合からははずれてしまうんですよね。


昨今のような不安定な経済状況になると“only one”になることが生き残る手段だと何かにありました。誰でもいいのではなく、私でなければできないことを身につけてアピールすることが雇用される側としてのonly one。お得な感じを受ける買い物、日常生活を切り詰めて時々贅沢するときに選ばれるonly one。
そういえば先日、東京ディズニーリゾートのひとり勝ちという話題をTVで目にしました。この世の中にあって入場者が減らないということです。決して安く遊べるところではないのですが、お金を使ってでも行きたくなる魅力があるのでしょうね。遊園地へ行く回数を減らした分、行くならTDL・・・ということかな。


ここまでの記事を書くにあたり、企業の役割りとか、経営理念とかを調べていて、松下幸之助氏が「会社は社会のもの(社会の公器)」と言ったことを知りました。企業は誰かのものという考え方をするのではなく、誰のためにあるのかという存在を問うていくべきだという考えだとか。企業は社会のために役立つから存在価値があり、利益もあがっていくということのようです。それによって株主や雇用者に還元されるものがうまれて、人の生活が潤うってことですかね。

このところの解雇や派遣村とかいうニュースを聞くにつれ、何かしっくりこないものがありました。世の中の成り立ちがひっくりかえっちゃったようにかんじたからです。企業を守るために人が切られていく・・・。人もディスポーザブルな時代になってしまったのかって思いました。進歩した人間は住みやすい生活のために企業とか会社とか国とかいろんな組織をつくったんじゃないのかなあ。そのずっとずっと前、人類が誕生したころは家族しかなかったはずですから。
大事なのは人がうまく生きていくことのはずなのに、実体しかない企業が守られているような気がしました。もちろん企業がつぶれてしまえば路頭に迷う人々が出てしまうのだからやはりまずいのですけど、何かしっくりきませんでした。

松下幸之助氏の言葉は私のモヤモヤを代弁してくれたようです。彼は「不況もまたよし」と言ったそうですね。1929年の世界恐慌の時、従業員をひとりも解雇することなく乗り切ったとか。人も企業にとって財産なんですよ。人がいなかったら企業はなりたたないんですから。


経営者でもないし、解雇された労働者でもない私がなんでこんなことを考えたのかというと、実は私も学生から社会に出る時に“内定取り消し”をされた人間だったからです。私がその取り消しを聞いたのは1月半ば過ぎだったと思います。まさか就職できないなんて思ってもいませんでしたし、1つしか受けていなかったから、たいへんなことでした。
先日、その当時の自分はどんな思いでいたのか知りたくて、25年も前の日記を開いてみました。(+。+)あちゃ-、全然深刻じゃないですね。あっけらかんとしたもんです。2月くらいもまだ「就職決まらないけど、ど~しよう~」と書いてありましたが、焦っているようすは伺えませんでした。
地元ではないけど、3月になったら二次募集する病院があるからそこを受けてみようかなと思っていたくらいです。もし、そこにも落ちたら就職浪人でしたね。

結局、内定取り消しを通達してきたところと同じ系列で別の病院に就職しました。そこは内定者が就職を断ってきたということです。2つとか3つとか掛け持ちしていた人がいたんでしょうね。なんとなく拾ってもらった私です。よかったのか、悪かったのか・・・。

今回、記事に書きたかった本題は実はこれからです。随分前置きが難しくなってしまいました。
「人は物語に生きる存在である」ということを考えたかったからです。私が今ここにこうしていることが何に繋がっているのかを自分物語で探るというか、意味づけていく作業です。それをして、過去から未来に光を当ててみると何か見えてくるものがあるのだそうです。
長くなったので続きは次の記事にします。


写真は1月に撮影したものです。姪や甥たちと東京見物をしました。
タイトル下の写真は後楽園遊園地ラクーアの前あたりです。下から照らされた光に興味をもった二人はまぶしいのに覗きこんでいました。それが、ちょうど過去から未来へ光を当ててみるということと似ていたので・・・。

真ん中は浅草。人形焼を焼く職人さんの作業をじっと見つめるふたり。食べたいというのではなく、職人さんの技による動きがおもしろかったというか不思議だったんでしょうね。
それから仲見世通りです。飾りが日本の正月っぽいですよね。


下は東京ドームと東京タワーです。


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