鳳仙花が咲くまでに 12話 「その日、その時間」
太王四神記の稽古が進んでいるある1日。
商店街に出掛けた操に、2つの出会いが・・
「STOP!・・仁!表情が固い。スジニは王にとって一体
どんな存在?突然失ったものの大きさに、どれだけ彼女を
愛していたのかを思い知らされるんだ。
近すぎた存在だからこそ、その後悔も深い。
王としての自分と男としての自分。ここはセリフがないん
だから最後列の観客までタムドクの想いが伝わらないと。
もう1度、ベッドから起き上がる所からだ。立ち姿だけで
感じさせてくれ!・・いいですか?午後は、昨日進まなかっ
た最後の群舞を詰めます。用意して下さい。
拓海!ホゲはもっと踊っていいね。センターでタムドクに
出会うまでは激しくていい。群舞との立ち位置だけ気をつけ
て。では行きます・・Action!」
本公演に向けての本格的な稽古が始まった。
新作で、しかも初演出。
先生は毎日悩みながら台本と格闘している。
話題のドラマの舞台化という事で、最近メディアの取材も多い。
疲れているのに眠りも浅いらしく、ここ数日殆ど眠っていない。
私を抱き締めていた腕をそっと離し、昨夜も先生は夜中に起き
出した。私を起こさぬ様に静かにベッドを降り、暗闇に一人
窓辺で煙草に火を点ける。その姿はまるで、今の場面のタムドク
の様。緊張の連続と不眠症。私はただ見守ることしか出来ない。
これで夏季休暇が明け、9月に研究所が再開したら先生の体力が
持つのか。今の私はそれだけが心配だった。
影山さんのタムドクは、震えるほど素敵だ。
自分を追い込んで追い込んで・・役の人物が体に乗り移るかの
ように、ストイックに入り込んでいく。
いつもワイルドで男らしさが漂う影山さん。
その影山さんの若きタムドクが、1幕でキハに甘える仕草は堪ら
なく可愛い。こんな表情も出来るんだと、稽古場の女優陣は皆、
甘い溜息をついた。
タムドクとスジニ。
全体的に極端にセリフが少ない芝居だけど、この2人の場面だけ
は、コミカルな場面と共にセリフも多い。
親友で、同士で運命の半身。
この微妙な関係を、夫婦ならではの呼吸で合わせていく。
先生はただ「もう1度」と駄目を出すだけで、どこが悪いのかの
指摘はしない。影山さんは止められる度にジロッっと先生を睨む
けれど、それでも何パターンもの芝居をアドリブも入れて出し
てくる2人は、流石だと言うしかない。
ようやく狙いが的中したのか、先生は微笑みながら小さく頷いた。
萌さんのキハは、韓国の監督が“ぜひこの役を”と熱望したのが、
とてもよく分かる。不幸な運命に翻弄され、愛しながらも対立す
る女の悲しさと強さが全身から感じられ、悪役なのに彼女の人生
に涙が流れた。
“こんな役をいつか演れたら、女優冥利に尽きるだろうな・・”
私は稽古場での萌さんの動き、表情、全てから目が離せなかった。
その日の稽古は、ラストのタップの群舞がうまくまとまらず、
振り付けも担当する影山さんは、少しイライラして落ち着かなく
なってきた。
朝10時から始まった稽古は、午後2時に一旦休憩に入った。
劇団員はそれぞれ昼食に出掛けたり、
廊下に出て大きく煙草を吸い込んだり。
影山さんと先生は2人でずっと群舞を修正している。
時々振り付けの希望と演出の目とで意見が対立し、
影山さんが怒鳴り声を上げたりする事もあったが、結局先生の
静かな説得に納得したのか、うんうんと頷いていた。
4時から稽古を再開するというので、朝食にシリアルを半皿食べ
ただけの先生に何か食べさせなくてはと、私は稽古場を出て
駅前の商店街に買い物に走った。
コーヒーの粉とバケット、肉正の揚げたてのひれカツと八百新
の新鮮なレタス、艶やかなオレンジ。
ウスターソースをたっぷり浸み込ませたカツサンドは先生の好物
だ。最近食欲があまり無いけれど、これなら食べやすいだろう。
・・ちょっと手抜きで申し訳ないけれど。
早く帰ってカツサンドを作ろうと、ガードをくぐってまた小走りに
なった時、本多劇場の前で、困った様子の上品な60代くらいの
女性に声を掛けられた。
「あの・・お忙しいかしら、ごめんなさい。
こっちは南口商店街ではないのかしら。息子の所に行こうと思っ
たんだけど、考えたら家には行った事なくて・・
まったくおっちょこちょいだわ、私。住所書いたメモ忘れちゃっ
たの。この劇場は前に来た事あるし、結婚式で行ったから稽古場
への道は何となく分るんだけど。
馬鹿よね、またあの子に笑われちゃう」
「商店街に行かれるんですか?ここは反対側です。
このガードをくぐって駅を・・すぐですけど、路地が多いから
目的地を探すには難しいかな。ご一緒しますね。こっちですよ」
「あら?連れて行って下さるの?
いいのかしら、あなた急いでらしたみたいだったけど」
「はぁ、少し。でも大丈夫です。
家はすぐそこですし、まだ時間もありますから」
「まぁ!ありがとう。ふふ、ラッキーだったわ。あなたみないな
お嬢さんに会えて。もうすぐ夕方でしょう?孫が保育園に行って
るから迎えに行ってあげようと、実は少し焦ってたのよ。
いつもは大家さんが行って下さるの。でも今日は孫を驚かそうと
思って。夏休みに入ったらすぐ来ようと思ってたんだけど色々
雑用も多くてね。田舎から出てくるのは大変だわ。
息子は何で急に来るんだ!って、怒りそうだけどね。ふふ・・」
悪戯っぽい目でウインクすると、
その人は花の様な笑顔を私に向けた。
・・何て素敵に笑う人だろう。
その微笑を見ているだけで、
こちらまで幸せな気分になってくる。
私より少し背が低いが、この年齢の人にしては大柄な方だろう。
落ち着いたベージュの小花柄のワンピースがとてもよく似合っ
ている。ふんわりとしたウェーブの髪は殆ど白髪だったが、
その微笑は少女の様に可憐で、
私にはその白髪さえも魅力的に映った。
「ね、あなたどこかでお逢いした事ない?
何だか初対面の様な気がしないんだけど」
「え?いいえ、お逢いした事はないですけど・・
素敵な奥様だなって今、思っていたんです。
何か、ほっとするって言うか」
「あら、若いお嬢さんに奥様なんて言われたの初めてだわ。
帰ったら智明に自慢しよう。私ね、幼稚園をやっているの。
毎日子供達と格闘してるわ。いつもはGパンとTシャツとトトロ
のエプロンよ。だからこれは、一張羅」
駅前を通り越し、商店街へ入る道。
その人は雑貨店が道端に出した小物に目を輝かせ、
若者向きの洋服に“可愛い!”を連発した。そして小さな
オレンジ色のサンダルを見つけると、蕩けそうな顔でお孫さん
のお土産にと即決で買い求めた。
店から出たその人は、サンダルの入った袋を嬉しそうに私に
振って見せる。その満面の笑みに、思わず私も微笑み返した。
ごく自然に彼女が持っていた地方デパートの大きな紙袋を私が
持ち、私達はまた歩き出した。
それから10分程の道のり、彼女のお孫さんの自慢話は聞いて
いて微笑ましかった。
「初孫なの。とにかく目に入れても痛くないわね、可愛いったら
ないのよ。私、そんな小さな女の子を育てた事ないから新鮮でね。
孫が愚図ったりして息子夫婦が叱ったりしようものなら、
もうチャンス。主人と2人で、甘やかすだけ甘やかすの。
息子は教育者のくせに!って怒るけど、どう頑張ってもジジババ
はママには敵わないんだもの。
せめてそのくらいいいわよねぇ・・ね?そう思わない?」
2才になったと言う女の子。
・・・2才。
もしあの時。
あの時に、もっと私が・・
「あの、住所が分らないって仰いましたよね。
目印とかは、ないんですか?」
「息子夫婦は商店街の中のお店の2階に間借りしているの。
大家さんとはお友達で、かれこれ10年以上のお付き合いでね。
家族も同然の方なのよ。あんな息子に本当にいつも良くして下さ
って。ご存知かしら?“MIYUKI”ってお店。
常松さんって方がやってらっしゃるパブなんだけれど」
「みゆき、ですか?常さんの?そこの、2階」
「そう。あら?ご存知なのね?」
・・・ご存知も、何も。
じゃぁ、この人が影山さんの・・先生の、マム。
「あ、MIYUKIは、この角を曲がって3件目です。
今の時間なら漬物コーナーが混んでるからすぐに分りますよ。
私、用事があるのでこれで。ごめんなさい」
「あ、お嬢さん。ちょっと待って!お忙しいのにありがとう。
よかった、あなたに逢えて。無事に辿り着けたもの。
これも何かのご縁だわ。よかったらお名前聞かせて下さらない
かしら。私、稲垣亜矢子っていうの」
「私?わたし、は」
「これ、私の名刺。ふふ、肩書きだけは立派でしょう?
この年になると地元の教育関係の団体顧問だとか、婦人会の会
長とか、色々お声が掛かるのよ。面倒くさいから本当はそんな
の苦手なんだけど、つい良い人ぶっちゃうのよね。悪い癖なの。
小さい町だけどいい所よ。海は綺麗だし、魚も美味しいし。
ね、いらっしゃる時には遠慮なく連絡してね。
本当よ、社交辞令なんかじゃなく。娘が生きてたらきっと同じ
年頃なのよ。だからかしら、何だかあなたが他人みたいに思え
なくて。それに不思議だけど、あなたとはまた逢えそうな気が
するわ」
・・ええ、私も。
「あの、私、操です。それだけ憶えておいて下さい。
失礼します!」
小さく礼をして、私は後ずさりしてその場を後にした。
まるで後ろめたい事があるかのように、
早くその場から消えたかった。
素敵な人だった。
先生が尊敬する女性だと言っていた。
『稲垣のマムを知って、僕はアメリカのマムをやっと許せた
んだ。愛して・・愛して・・そして憎んで。
そんな僕の感情を全て稲垣のマムが包んでくれた。
あの人はね、今は本当のマム以上なんだよ、僕にとっては』
あの人の事を、そう言っていた先生。
あの笑顔に至るまでに、どれだけの涙があったんだろう。
子供好きなあの人が育てたのは、皆、血の繋がっていない子供。
しかも影山さんと先生は夫の隠し子だ。
さっき蕩けそうな顔で話していた可愛がっている孫も、
当然何の血縁も無い訳で。
それはきっと、私が流した涙など比べ物にならないはず。
MIYUKIの中にその人が入っていくのを見届けた私は、
ほんの少し溜息をついて、稽古場への道を走り出した。
駅前の時計塔が3時15分を指していた。
うわ!マズイ。
今から作ったらギリギリかも。
先生って、しょっちゅう食事抜くくせに、いざ食べ始めると
ゆっくり食べたい人だから。4時開始って言っておいて自分が
食べ終わってないから開始時間遅らせるなんて絶対しないし。
遅れたらまた夜中まで食べないわ、きっと。
早く帰らないと・・
商店街の顔見知りに挨拶を交わし、階段下の混雑を早足で
通り過ぎた時、その低い声が私を呼んだ。
「操」
一瞬で、時が止まった。
「操」
聞き間違える訳などない。
6年間も耳元で聞いてきた声だ。
足がすくんで動けなかった。
振り向く事など出来なかった。
足元にビニール袋がバサッと落ちる。
何個かのオレンジが、ガード下まで転がっていく。
大きな手が・・私の肩の上に掛かった。
「お、3時だ。いい加減腹減ったな。
バーニー、少し休憩しよう、な?
瞳、飯は?今日は常さんのおにぎりないのか?」
「今朝、商店街の組合の会合がありまして常さんは忙しく、
そちらは生憎とございません。
私が早起きして作りましたサンドウィッチならございますが」
「おお!それを早く言えよ。腹ペコなんだ、俺は」
「・・」
「何だよ。早く、メシ!」
「仁さん。あなた・・私に何か言う事ない?」
「あ?何を」
「さっき稽古で。あなたが言ったアドリブ」
「アドリブ?何か言ったか、俺」
「バーニーも聞いてたわよね。どさくさに紛れて出るアドリブ
って結構真実なのよね・・ショックだった。
あなたが、そんな風に思ってたなんて」
「おいおい、瞳!何の事だよ。アドリブ?・・憶えてない。
スジニが前夜に自分を置いてさっさと帰ったタムドクに噛み付
いてる所だろ?俺のセリフ?
“いくら男に惚れたからって、ずっとくっ付いて来るってのは、
女としてどうなんだ?そんなに俺に惚れたのか?抱いてやろうか”
・・って・・・あ」
「思い出したのね。そう、その後よ。
仁さん、いくらなんでもあれはないんじゃない?アキラ君や、
村上さん達お腹抱えて笑ってたんだから!・・悪かったわね
私があなたしか知らなくて。生娘はめんどくさいから嫌だ?
1回抱いたら女はすぐ夢中になる?それは、あなたの体験談?
もしかして私も、そう思われてたって事?
“お前の初めてになれて光栄だ”って言ったの、
誰だったのかしら」
「ばっ・・瞳!!・・あれはだな!」
「謝れよ、仁。それは仁が悪い」
「お前が言うな!どこが悪いかも言わずに、ああ何回も駄目出さ
れたら、思いつくセリフだって限りがあるだろう?誰のせいだよ。
瞳・・あれはさ、言葉のアヤって奴だ。意味なんかない。
深読みするなって!」
「どうかしらね。この間の事だってあるし」
「はぁ・・あの女には前科がいっぱいあっただろう?
警察も言ってたじゃないか、酷い目に遭いましたねって。
おい、俺が何年片想いしてお前を手に入れたと思ってるんだ。
あの時、どれだけ俺が嬉しかったか・・分かってるだろう?」
「そこまでだね。休憩まだ残ってる。
仲直りするなら僕の部屋行けよ。1時間貸してやるから。
多分この後の展開は、ここにいる独身達には少し刺激が強い」
「やだ、バーニー。私、まだ許した訳じゃ・・
もう!触らないでってば!・・あ、そういえば操ちゃん、
ずいぶん遅いよね。買い物、駅前まででしょう?」
「あ、うん」
操の帰りが遅い事は、少し前から気になっていた。
彼女の買い物は、いつもとても早い。
よく女性にありがちな、衝動買いや寄り道を殆どしないからだ。
部屋でもう何か作ってるんだろうか。
でも稽古場の前を通ったのを、僕は見かけなかった。
仁達と軽口を叩いていても、
傍に操の存在が無いのが妙に落ち着かない。
瞳に言われて心配にもなってきた。
稽古場の時計を見ると、3時15分だった。
・・・顔が見たいな。
たった1時間の事なのにそんな事を考えた自分が可笑しくて、
彼女の存在の大きさを、僕は改めて思い知らされた。
コラージュ、mike86
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