金色の鳥篭 ― スジニの愛 ― 2
私は韓国語に詳しくはないですが、本来なら父親は「アボジ」母親は「オモニ」です
よね。「アッパ」「オンマ」は、「パパ」「ママ」に近い幼児語と聞いた記憶が。
このお話で、スジニはアジクにお父さんを「アボジ」お母さんを「オンマ」と呼ばせて
います。スジニはアジクに父、タムドク王に対して尊敬語を使わせてたんですね・・
「先生・・もしや、言葉の先生じゃありませんか?
もう何年になるでしょうか。私を憶えておられるでしょう?」
・・ええ、憶えてる。
あまり逢いたくなかったけれど・・
「ここへは陛下に呼ばれてきたのです。高句麗のタムドク王ですよ。
ああ・・懐かしいな。じゃあ、さっきの坊主!・・じゃなかった、あの子は、
もしかして、あの時の赤ん坊ですか?」
「どなたか存知ませんが、何か勘違いなさっていませんか。
私は高句麗の出ですが、王様とは面識がありません。すみません、忙しいもので」
「今日はこれから陛下のところに行くのです。ここから三日の所で、
高句麗軍は陣を張っておられるんですよ」
「三日?・・そんなに、近く・・」
「ええ。あなたはやはり陛下をご存知なのでしょう?あの時、確かに陛下は
あなたを探しておられた。あなたは、突然姿を消してしまわれたが」
「アタシは、しがない居酒屋の女将です。
こんな商売の女と、そのような高貴なお方、面識などあるはずがあ
りません。それにあの子はアタシの甥です。
姉から預かった子供なんですよ・・・つい、先日」
「先生!」
泣きたくないのに涙がこぼれた。
隠そうとすればするほど、言葉を重ねれば重ねただけ、
王様への想いが溢れてくる。
昔のアタシを知る人になんか、ここで逢いたくなかった・・・
「お食事の支度が整いましたらすぐにお持ちいたします。
それまであちらで、お酒など召し上がっていてくださいませ」
まだ手が震えてる。
あの人が、傍にいる・・
いつのまにか、あの人の傍に近づいていたんだ。
逢いたい心が、無防備に足を向かせたのかも知れない。
逢いたい。
逢いたい・・
でも、アタシには出来ない。
あの人の笑顔が、今も胸に焼き付いているけれど。
そうだ!すぐにもここを出なければ。
もし、チュムチなんかに知られたら、三日どころか
あっという間に見つかってしまうもの。
何より警戒しなければいけないのは火天会だ。
どこに目があるとも限らない。
さっきの会話。
・・誰にも聞かれていないとは思うけれど。
「アジク~?アジク!どこ?」
「あ、イモ!さっきのお客さんがね、いっぱいお金くれたんだ。
いいお客さんだったね。これでイモの新しい弓が買えるよ」
「アジク。大事な話があるの。いい?すぐに、ここを出るわ」
「どうして?ここには赤い服の人はいないよ」
「そうね、今、ここにはいない。
でもね、きっと、もうすぐここにもやって来る。
アジク、いつも言ってるよね。あの赤い服の人達は、アジクをどうす
るんだっけ?」
「ぼくをさらいに来るんでしょ?赤い服の人はわるい人たちだから」
「そう。赤い服の人はアジクを狙ってる。アジクは他の子と違う。
アジクは・・アジクのアボジは、奴らの敵なの。
あなたのアボジにとって、アジクはたった一つの弱点。
だからアジクが欲しいのよ。だからアタシ達は、逃げなきゃいけない。
もっとアジクが大きくなって、自分の力で戦えるようになるまで。
そしたら、その時が来たら、イモが弓を教えてあげるって、前に約束
したよね」
「うん」
「子供のあんたにいつも無理させてるのは悪いと思ってる。
小さいアジクには難しくて分らない事だってことも。
アボジにもオンマにも会えなくて可哀想だとも思ってる。
だけどね・・」
「イモ。ぼくがアジクだからでしょ?“まだ”だから」
「え?」
「ぼくのアボジは強い人なんでしょう?
戦って、悪い人をやっつけてるんだよね!
ぼく、早く大きくなるよ。アボジみたいに悪い人をやっつけるんだ。
そして“まだ”じゃなくなるの。
ね?大きくなって、強くなって、今度はぼくがイモを護ってあげる。
ぼくが、イモの“ペーハー”になるから」
「アジク、どうして」
「イモ、寝てる時にときどき言うよ。“ペーハー”って」
「・・うそ」
「ペーハーって、誰?
寝言でその名前を言う時、イモ、楽しそうに笑ったりするよ。
イモがいつもあんな風に笑ってくれるように、
ぼくがペーハーになったげるからさ」
「アジク」
「ぼく、もう8つだよ。お金だって数えられるし、お客さんの相手も出
来るし、これから魚釣りだってもっと上手になる。
だから、もう少し待ってて。
ぼくが、うんと強くなって、赤い人をみんなやっつけるから!」
アジクは胸を2回拳で叩いて、ニコッと笑った。
昔、アタシがよくやっていた様に。
同じ年頃の子より少し小さいアジク。
生まれてすぐに母親と引き離されて、充分なお乳も飲めなかった。
心配で・・
心配で。
アタシはアジクを護る事だけで精一杯で。
それがいつのまにか、こんなに大きくなっていたんだ。
アタシの事を心配するくらいに。
さっきの笑顔。
初めて会った時の、王様に似ていた。
『じゃ、頑張って』
タレの店でアタシを置き去りにした時の、あの笑顔に。
やっぱりこの子は、王様の子なんだ。
そして、“オンニ”の。
時間が必要だったよ。
アジクへの気持ちが愛情に変わるには。
最初は本能で護っていたのかもしれない。
この小さな赤ん坊を死なせてはいけない、その一心で。
朱雀の血が・・そうさせていたのかもしれない。
でも・・
でも・・
『こんなアタシにも、両親なんてもんがいたんだってさ』
両親。姉妹・・
アタシにも家族がいたんだ。
オンニ。
ごめんね。
アタシはオンニに剣を向けた。
アタシには、優しいお師匠様や、兄弟同然の仲間がいたのに、
オンニは、あの時に火天会にさらわれてたんだね。
怖かっただろう?
辛かったよね?
赤ん坊のアタシは、小さな篭に入れられてたって聞いたよ。
何かから護る様に、床下に隠されてたって。
オンニが護ってくれたんだよね。
アタシが何も出来ない赤ん坊だったから。そうでしょう?
アジクを育てて、やっと分った。
オンニの寂しさも、アタシだけを頼る小さな者への愛しさも。
・・・辛かったけど、もういいんだ、王様の事は。
どう考えたって、アタシは王様に愛される資格なんてないし。
アタシは・・黒朱雀なんだから。
『お前は何を着たって綺麗だよ』
どうしてあの時、王様はあんな事言ったんだろう。
王様が好きなのは・・オンニなのにさ。
ああ~~!難しい事なんか考えるの止めよう。
アタシはアジクを育てる事。
これだけが真実なんだから。
そのために、今まで生きてきたんだから。
「イモ!スファンに“さよなら”言って来ていい?
ぼくの初めての友達だもん。ぼくはイモといっしょに行くけど、
さよならはしたいの」
「ダメよ。ダメなの、アジク。もう時間がないから」
「ほんのちょっとだよ。赤い人たちの話はしないから!
スファンアボジにだってお別れ言いたい!」
「ダメよ、アジク・・」
「ちょっとだから~」
「アジ・・」
急がなくてはいけない。
できるだけ遠くに行くために。
高句麗軍の影を感じない、もっと遠くの村まで。
ここへ来て、荷物が少し増えてしまった。
落ち着いた暮らしに安定した商売。
とても暖かい人達。
もう少しここにいたかったけど・・
荷車に全部の荷物を押し込んで、なかなか帰ってこないアジクを待つ。
早く出ないと、船着場に着く前に日が暮れてしまうかもしれない。
イライラしたアタシは、スファンの家までアジクを迎えに行った。
狭い路地の奥の長屋の一室。
その戸口に、スファンアボジが立っていた。
真っ直ぐにアタシを見る切ない目。
どうして男の人は、いつもこういう目でアタシを見るんだろう。
どうして男の人は、女を傍に置きたがるんだろう。
「嘘だよね。さっきアジクが言ってたけど」
「ごめんなさい、アジクを。アジクを呼んで下さい」
「少し時間をくれないか。
アジクを引き止めておくように俺がスファンに頼んだ。
あんたと、話がしたかったから」
「時間が無いの。早く行かなきゃ」
「スジニさん!」
思わず伸ばしたその手が、アタシの手首を強く掴んだ。
「スファンアボジ、時間が無いんです。手を、離して」
「ヒョヌだよ、俺は」
「・・ヒョヌさん。アタシ達は行かなきゃいけないの。分かって!」
「何から逃げてるんだ、あんたは。
ここに初めて来た時のあんた達を憶えてる。
いつも何かに脅えて、辺りを窺って・・やっと落ち着いて暮らせるように
なったんじゃないか。一人が辛いなら、俺がいるよ。
俺が・・俺は、あんたとアジクを」
「・・アジ、ク・・」
「誰を待ってるんだ!何から逃げてるんだ!何も来ないよ。
こんな田舎に、誰も来ない」
「・・・・ア、ジ・・」
「ずっと好きだった。俺達は気が合ってる。
ここでずっと商売すればいい。
俺と、スファンとアジクと一緒に」
「アジーク!!!」
「スジニさん!」
「・・・ダメ・・・・アタシは・・嫌!・・触らないでっ!!」
きつく握られた手首を、思いっきり振り解いて外すと、
ヒョヌは驚いたような顔でこちらを見返した。
「傍に来ないで!本気で戦ったらアタシの方がきっと強い。
あなたはアタシの事を何も知らない。近づかないで!
それ以上近づいたら・・舌を噛むわ」
「スジニ?!」
「アタシはスジニなの・・自由に大空を飛ぶ鷹。
誰もアタシを篭に入れられない・・
誰も、アタシを・・捕まえられない」
「篭?俺はあんたを篭に閉じ込めるつもりなんてない。
ここで子供を育てるんだ。アジクとスファンと・・俺達の子供を」
「・・アジク・・」
「スジニさん。急に悪かった。もっと話そう」
「名前・・アタシの名前。呼ばないで・・アタシの、アタシの名前は・・」
『おい』
『スジニだよ』
『私が間違っていたせいで、お前を傷つけた。
そして、私は・・父上や仲間を死なせてしまった』
『おい』
『スジニだってば!』
『お前の師匠が私を王だと言ったから、お前は私の傍にいるのか?
な、お前はどう思う?私は・・チュシンの王なんだろうか』
『ここ見て、さっきの傷。ね?もう治ってるでしょう?
昔からそうなんだ。どんな怪我してもアタシって一晩で治っちゃうの。
王様もアタシみたいだったら良いんだよ。そんな事で落ち込んでて
どうするの?
王様が“戦え!”って命令を下す。戦が始まったら、王様のその
命令一つでもっともっと沢山の人が死ぬんだよ。
アタシはね、こう思うんだ。
王様っていうのは、一晩経ったらどんな痛みからも立ち直らなくちゃ
いけないんだって。
また立ち上がって、歩き出し、傷ついた兵に向かってこう言うんだよ。
“私が王だ。私の後について来い!”ってね』
『・・スジニ。前にお前に言ったかな』
『何?』
『ありがとう、って』
「アタシがスジニと呼んで欲しいのは1人だけ。だから名前で呼ばないで。
アタシはアジクのイモ。アタシにはそれが全てなの・・
ごめんなさい・・アタシ、行かなきゃ。アジーク!」
飛び出すように、アジクが出てくる。
アタシに飛びつくと、手を掴んで走り出した。
「スファン、あんにょん!スファンアボジ、あんにょーん!!」
日暮れが近づいてくる。
船着場に着くまで、持てばいいけど・・
・・ありがとう、王様。
あの時、名前を呼んでくれて・・・
アタシ、本当に嬉しかったんだ。
そして、何だかドキドキしてさ。
あの時は、自分が何で王様にくっついてるのか、自分でも分らなか
ったけど、アタシ、誓ったんだ。
アタシは、この王様のために生きようって。
王様にずっと名前を呼んでもらうために、傍にいようって。
今なら、あの時の気持ちがちゃんと言えるよ。
アタシは、王様が大好き・・だったんだ。
「イモ~、早く~!ねえ、次はどこに行くの~?」
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