菜の花の記憶 12話 「糸口」
雨の中で思い出した遠い日の記憶。
仁は、幼い時に遊んだ秘密基地に向かいます。そして・・そこには・・
あれは、確か。
ローズテストガーデンの奥の森の中。
小さな川があって、丸木橋を渡って・・
「仁。ここか?思い出したのか?」
「知ってるはずないんだ・・こんな初めての場所。
懐かしいなんて思わないんだ・・でも、道は分かる。
何回もこの道を通ったって事は分かる。思い出したの
とは少し違うけど。
変だろ?今、俺の足、勝手に動くんだぜ。
アル、さっきの雨で足元が滑る。気をつけろ。
瞳・・おいで」
何故俺は、あいつを探しているんだろう。
何故早く、早くと気持ちが急くんだろう。
瞳を護って歩きながら、その小さな手に俺の心を
全て預け、ただあいつへと・・足は動く。
無くした筈の俺の記憶。
その奥底で何かが“急げ!”と叫んでいた。
あ!
「仁さん?」
「瞳!ゆっくり来い!!」
小さなその小屋は、いつから使われていなかったのか。
花栽培に使われていたのか、肥料小屋だったのか。
入り口は狭く、桜の巨木が見事な花を湛えて、
その入り口を覆い隠すように枝を張っていた。
「・・バーナード?」
「バーナード!いるのか?!」
「おい、返事しろ!どこにいる!!
俺だ・・・・・・バーニー!!!」
「・・・バ・・・カ・・・・おそ、い・・よ・・・エド」
「バーニー!!そこか?!」
小屋を覆い隠すその太い枝は、雨と風で倒れたのだろう。
それとも雷が落ちたのか。
太い幹にまで亀裂が入ったその木で完全に入り口は塞がり、
人一人の力では到底持ち上げることなど出来なかった。
「仁!」
「仁ちゃん!!」
「てつ・・だ、え!」
俺と、木島、常さん、そして、アル。
途中からは瞳も加わり、5人がかりで1時間以上も格闘し、
やっとの事で、ほんの少し枝はその場所の入り口を開けた。
狭い小屋の中でバーナードは、
大きな体を折り曲げるように横たわっていた。
「エド・・遅い」
「バカ言え!ここを思い出すのに、31年掛かったんだ。
・・来てやっただけでも、ありがたく思え」
「フフ、そうだな。でもきっと来るって思った。
だから待てた。どうしてだろう・・どうして、そう思ったん
だろう・・分からないけど。でも助かった。正直ヤバかったよ。
そうか、エド。僕が呼んだの、聞こえたんだな」
「立てるか?」
「足がっ・・・悪いほうの足、
床にはまって切ったんだ。ここ、古いよ」
「バカか?お前」
「お前が、言うな・・いつも僕が、助けて・・やってたんだ」
「仁!早く病院に!」
「いえ・・だい、じょ・・・・ぶ・・・で・・す・・・・」
「バーニー!!」
意識を失ったバーナードは、軽い栄養失調と脱水症状だった。
床板で切った脹脛は15針縫ったが、思ったより軽い症状で
済んだのは、食料が少しあった事と、雨水が小屋に染み込んだ
お陰で、渇きを癒せたからだそうだ。
丸一日の入院。
栄養剤の点滴と、本当に起き上がるのかと疑うほどの
深い眠り。
瞳は、「寝顔が仁さんと同じ」と言い、
木島は俺を見てニヤリと笑った。
アルはホテルに行かず、病室のソファーに横になり、
常さんの膝枕で眠った。
眠りにつくまでアルは、バーナードの寝顔を
ただじっと見つめていた。
探していた、敵との対面。
多分アルが想像していた姿より、ずっと子供っぽい表情の
その寝顔は、アルの右手の握り拳の力をだんだん緩めて
いく。やがて眠りについたアルの髪を、常さんはずっと
撫でてやっていた。
皆が思い思いの夜を、その病室で明かした。
翌日の夜明け。
バーナードは静かに目を開けた。
ベッド横のイスで雑誌を読んでいた俺を見つけると、
まだぼんやりとした顔で呟いた。
「あぁ・・やっぱりいたんだ」
「起きたのか?」
「夢だと思ってた」
「何が?」
「エドがいる事」
「俺も不思議なんだ」
「何が?」
「お前と普通に話してる」
「あぁ・・・あの時さ・・あのカフェで。
言いたい事、何にも言えなかった。
いざエドが目の前にいると、あんな風にしか出来なくて。
・・怒らないで聞けよ。白状するとね、瞳と知り合った時、
初めは下心があったんだ。エドが愛している女、僕が奪った
ら、エドはどんな顔するだろうって。
僕はエドが苦しむ姿を想像した。僕の今までの想いに比べ
たらそんな事、他愛も無い事だと思った。
でも瞳は、エドしか見ていなかったよ。
エドへの愛が心から溢れんばかりで・・アハハ、誘惑した
つもりだったんだけどね。誘うように見つめても、さりげ
なく肩を抱いても、瞳は全然気付かない。
エド。あの娘、本当に面白いよ・・ハハハ。
あの笑顔。お日様みたいなあの笑顔に、僕は久しぶりに
心から笑った。そして瞳の中にエドを感じた。
・・やっと気付いたんだ。
今まで僕はエドを憎みながら、本当はエドが恋しかったんだ。
エドに、逢いたかったんだって。
カフェからまっすぐこっちに来たんだ。
気付いたらオレゴン行きの飛行機に乗ってた。
空港でチョコレートを買ったよ。あと、カップケーキ。
ね、憶えてる?ほら、上に青いブルーベリーのクリームが
乗ってる奴。何だか急にあそこでお菓子が食べたくなってさ。
子供の時みたいにあそこで寝転んで、腹ばいになって。
ハハ、まさか雷が落ちるとはね。携帯は切れて通じないし、
夜は寒いし。“このまま死ぬのかな”って少し考えたよ。
マムに叱られたような気がした。きっとマムなら、こう言うな。
“バーニー、エドと仲直りしなさい、エドは何にも悪くないのよ”
って。・・分かってるんだよ。この感情が理不尽な憎しみだって
事は。エドは何も憶えていない。僕を忘れたことだって、エドの
せいじゃない。
エドが行ってから、マムは笑わなくなった。
グランマが亡くなってからは、もっと酒に頼るようになった。
どんなに僕が勉強していい成績を取っても、
どんなに僕がダンスをうまく踊って見せても、
マムは、エドの事だけを愛してた。挙句の果てに僕は怪我をした。
ダンサーになって、メインストリートで踊るってマムの夢さえ、
もう叶えられない。どうすればよかったんだ?
僕は、どうすればマムを・・笑わせられた?」
「バーナード」
「あれ?バーニーって呼んでくれたよね、さっきは」
「・・そうだったか?」
「フフ・・アメリカって国はね、人種のるつぼって言うだろ?
いわば移民の国だよ。でも実際はしっかり差別がまだあってさ。
この街だって、僕らは少数派の黄色人種。
グランマは日本人、マムはハーフ。僕に流れてるアメリカの血は
たったの4分の1だ。“僕は日本人?それともアメリカン?”
現実を突きつけられるたびにその疑問がやってくる。
“9・11”の時、ハイスクールからのたった1人の親友が
あのビルにいたんだ。彼は在米コリアンで、こんな僕を理解して
くれた唯一の友だった。その時、僕は仕事でラスベガスにいて、
ニュースを聞いて慌てて帰ろうとした空港は、もう大混乱だった。
長い行列、厳重過ぎるほどの手荷物検査。
そして“アメリカン”と“それ以外”とに列を分けられたんだ。
アメリカで生まれて、アメリカで育ったのに僕は、
“それ以外”だった。
笑えるだろ?この顔はそんな書類とは関係ないんだ。
結局彼は、遺体も見つからず、アメリカの風になった。
彼のオンマの号泣する声がまだ耳に残ってるよ・・
それからの僕は、本当のアメリカンになろうと決意した。
他人に隙さえ見せなかった。ice manと呼ばれることを誇りにも
思ってきた。実力なんだよ。力さえあればこの国は、こんな僕で
も認めてくれる。・・忘れかけてたんだ、エドの事。
自分の事で・・アメリカ人になることで精一杯で。
その年、マムが死んだ。
長年のアルコールで、体はもう、ボロボロだったんだ。
マムが死んで、僕はまたエドを思い出した。エドはマムの事を
知らない。あんなに愛していた息子に忘れられたマム。
死んだことさえ伝えられない。そんなの・・可哀相すぎるだろ?
・・調べたんだ、エドの事。
まだあそこで、先生してると思ったけど。
そうしたら・・よりによってエドは、あんなに僕がなりたかった
“ダンサー”になってた。
エドだって苦しんでその道を選んだのに、僕はまた君を恨んだ。
そんな時クリスに見せられたんだ。東京でのウエストサイドの
ビデオを。それは悔しい位に感動的で、悔しい位に素敵な舞台
で。舞台の上のエドは・・エドのタップは・・震えがきて・・
僕は、涙がこぼれそうだった。
僕が、僕の方が日本に行けば、マムは幸せだったのかも知れな
い。エドが踊ってあげれば、マムは笑っていられたのに・・・
悪かった。あの記事は故意に書いた嘘だ。
あの舞台は素晴らしかった。あれは、あの記事は、
僕の・・エドへの・・」
いつの間にか瞳も、木島も、常さんも、そしてアルも
バーナードの話を聞いていた。
「ダディーを返せ」
「アル!」
「ダディーを返せよ!!あんたに会って、オレは敵討ちが
したかった。初めジンをあんたと間違えたんだ。そしたら
ジンはオレにそんな事はやっちゃ駄目だって。
ね、どうしてあんたは、ジンの兄弟なの?
どうして、あんたはオレと、同じなんだよ!
オレ、ジンが好きだ・・ジンが悲しむ事、したくない。
でも・・オレ・・オレ・・・」
アルは、常さんの胸に飛び込み泣き出した。
その声は、俺たちが初めて耳にする
アルの子供らしい泣き声だった。
「この子は?」
「あんたに父親を殺された子よ。劇評でね」
「え?」
「直接はあんたのせいじゃないわ。でもそれが原因で亡くなった
のも事実。そしてこの子のマムはあんたのマムと同じよ。
夫を失った悲しみに耐えられずに、アル中で入院中。
真実を書くのはいいわ、でもペンは人を殺せるのよ!
憶えておきなさい。見なさいな。
この子は・・まるであんたじゃないの!」
そうだ。思いだした。
バーナードの、この表情。
バーニーはいつも俺をかばってくれた。
そして、俺の代わりに叱られてくれた。
とても苦しそうに、マムや身勝手な大人の叱責を全身に浴びて
いた。叱っている者の想いをその小さな体に受け入れて、
俺には舌を出し“エヘヘ”と笑いかけてくれた。
誰よりも優しく、誰よりも傷つきやすい、バーニー。
「そうだったのか。申し訳なかった。今更謝っても遅いが・・
ただ1つだけ言わせてくれ。
僕は嘘は書かない。必要以上の絶賛もしない。
僕が書いた事で傷つく役者は多いだろう。
でも、僕が取り上げる役者は僕の目に留まった役者だ。
ひどい演技だろうが音程を外そうが、僕はそいつに目を向けた。
それはね・・悪い事じゃないと思う。見るに値しない役者の事を
僕は記事にはしない。自分で言うのも変だが、僕は悪い目は持っ
ていないよ。僕が書いた人は、書くだけの価値のある人だけだ。
そんな物で駄目になってしまうなら、もうそれ以上にはなれない。
厳しいね・・それが現実なんだよ。
僕が嘘を書いたのは・・僕の劇評家人生の中で、“宇宙の舞台”
ただ1つだけだ」
アルは、もう泣いていなかった。
ただ、バーニーを見つめていた。
バーニーの毅然とした言葉に、ただそこに立ち尽くしていた。
コンコン。
その時、誰かが病室のドアを叩いた。
部屋の中の6人は、一瞬顔を見合わせる。
瞳が立ち上がり、そのドアを開けた。
入ってきたその男は、俺のよく知った男だった。
・・俺が唯一、こう呼ぶ男。
「親父?」
そこに、親父が立っていた。
あのいつもの飄々とした表情ではなく、
今まで見たこともないような、神妙な顔をした親父が。
話し出した口調こそ、いつもの調子ではあったけれど。
「仁。思いがけず懐かしい所に招待してくれたな。
大変だったよ、NYに行ったらホテルで萌ちゃんにお前達が
ここにいるって聞いて。お!木島君、結婚決めたのかい?
すっかり奥様って感じだったぞ、彼女。去年家に来た時より
ずっと女っぽくなってた。式には呼んでくれよ。
仁と瞳の親友の結婚式だ。何をおいても出なくちゃな」
「どうして?なんでここに親父がいるんだよ」
「この間、瞳に電話もらった。お前達が心配だって。
あぁ、バーナード・・君は憶えてるのか。昔の事を」
「お久しぶりです、稲垣さん。31年ぶり、じゃないな。
僕は1回あなたの家に行った事がある。
まだ美雪ちゃんが生きていた頃。ご存知でしたか?」
「いや。そうだったのか。
仁に・・エドワードに会いにかい?」
「会いに?いいえ、確かめにです。エドがどう生きてるのか、
僕より幸せなのかどうか。あの頃エドは幼稚園で働いていて。
僕が行った時、学校帰りの美雪ちゃんとすれ違ったんです。
美雪ちゃんは僕を見て驚いた。“お兄ちゃんに似てる”って。
かわいい娘でしたね。見ず知らずの僕を、園に連れて行こうと
したんですよ。僕は、わざと英語を捲くし立てて・・逃げました」
「ハハ、あいつらしいや」
「しばらく外で隠れてるとあなたが帰ってきた。
エドと、美雪ちゃんと、奥さんとあなた。
幸せそうでしたよ。園庭でエドが運動会の準備をしていて、
美雪ちゃんがそれを邪魔して。
考えたらエドは家族の誰とも血が繋がってなかったんだ。
・・理想の家族に見えたのに」
「仁。お前に全部話さなきゃいけないと思って来たんだ。
31年前の事、お前が記憶を無くしたときの事、お前達の
父さんの事を。バーナードの具合さえよければ行きたい所が
ある。お前に見せたいものもな」
「親父?」
31年前。
そこに忘れた、俺の記憶。
見えてきたその糸口。
その先端を今、俺は掴もうとしていた。
コラージュ、mike86
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