菜の花の記憶 13話 「透明な月」
遂に13話です。仁とバーニー。そして義父、稲垣智明と瞳達。
彼らが向かったその場所とは・・・
その日の午後。
バーニーは無事退院し、お義父さんとバーニーは
私達をある場所へ連れて行った。
病院からバスに乗り、市街を抜け、
彼の実家の傍を通って15分程。
これから何処に行くのか。
そこには何があるのか。
お義父さんも、バーニーも何も話してくれない。
バス停から、10分も歩いただろうか。
その場所は、突然私たちの目の前に現れた。
それは、一面の。
なんと形容していいか分からないほど
ただ・・一面の。
目に見える限りの景色が、全て黄色に埋め尽くされた
“菜の花畑”
「こ、これ・・親父、ここは・・」
こんなにうろたえる仁さんを、私は初めて見たかもしれない。
あまりに衝撃が強かったのか、
彼は手で口を押さえ、しばらく息さえ出来ないようだった。
そして1人、一面の花畑に入っていく。
ゆっくりとした足取りで、その黄色の花の中に
分け入った彼は、目を閉じ、大きくその香りを吸い込むと、
やがて菜の花のオーラを全身に纏うように、
大きく手を広げ天を仰いだ。
「ここ、知ってる。あぁ・・憶えてる。
ここで俺達、遊んだよな?夢にも出てきた事がある。
一面の黄色の絨毯・・・ここは・・
バーニー、ここって・・そうだろ?そうだよな?
・・かくれんぼしたんだ、お前と。嬉しくて。走り回って。
そうだ・・俺達の横に誰かいた・・・あ・・・・親父?」
「仁、そうだ。そうだよ」
「仁!思いだしたのか?」
「あぁ。ここにいたあの日。あの時一緒にいたのは・・親父だ。
そうだろ?親父と、俺と・・・バーニー。
日暮れが近くて、黄色が夕日に反射してオレンジになって。
遊んだんだ・・日が落ちて菜の花が見えなくなるまで。
俺達は背がまだ低かったから、菜の花の中に隠れて遊んだ」
「そうだよ、エド。僕たちの思い出の場所だ。
僕は空港からまずここに来た。・・まだあったんだ。
ここは、あの時のままだよ」
「俺と、バーニー・・そして、親父。
でもどうして、親父なんだ?俺が5才だぞ?
だってその時まだ親父は・・俺と、出逢ってないだろ?」
「慎さんは、その時にはもう動けなかった」
「親父?」
「私が留学していたのは、もう37年も昔のことだ。
毎日のレポート、英語漬けの日々のストレス。
ナーバスになると日本から持ってきた漫画や、本で気分転換
していたんだが、ある日急に思い立って芝居を見ようと
ブロードウェイに行ったんだ。
チケットの買い方さえ知らなかった私は、ただうろうろする
ばかりだった。やっと見つけたキャンセル待ちの行列。
ところが、私のすぐ前でチケットは売り切れ。もう茫然自失さ。
その時声を掛けられたんだ、日本語で。
“俺はいつでも見られるから、このチケット使えよ”って。
・・それが、影山 慎一。お前達の父さんだ。
慎さんは私より2才上、背が高くて男前でな。髪が長くて・・
ちょうど、今の仁によく似てたよ。
啖呵を切って日本を出てきたのに日本が懐かしくて。
同年代の日本人が並んでるのが気になってたんだそうだ。
日本語で話がしたくてうずうずしてたって。
その縁で、私達は友人になった。
慎さんの舞台も何度も見に行った」
「親父」
「あの時。慎さんが帰国を決めた時、突然アリスさんが
いなくなったんだ。君達を妊娠している事を告げもせずに。
慎さんは必死で彼女を探した。友人は誰も行方を知らない。
オレゴンに実家があるのは知ってたが、そこで消息はぷっつり
途切れてしまった。傷ついた慎さんは帰国し、半年後日本で
見合い結婚した。・・あぁ、それが母さんだ。
母さんは保母さんで幼馴染。とんとん拍子に話が決まったらしい。
子供は出来なかったが、夫婦仲は悪くなかった。
母さんはあの通り楽天家で楽しい人だからな。
翌年私も帰国した。時々園に遊びに行ったよ。
慎さんは園の仕事は母さん任せで、芝居に出たり、バイクで
ツーリングに行ったり、ふわふわした生活をしてた。
私にはいつも笑顔だったが・・
心ではまだアリスさんを想っていたのかも知れないな。
その5年後だ。私は頼みがあると突然園に呼び出された。
園では母さんと、お前達のお爺さんが待っていた。
アメリカに孫がいる事が調べて分かったから、私に行って
欲しいと。そしてアリスさんに会って、双子のどちらか1人を
引き取ってきて欲しいと。
慎さんは肺ガンの末期で、あと半年の命だったんだ。
そして影山には跡継ぎが必要だった・・彼女と面識があるのは
私だけだったし、こんな事を頼めるのも、また私だけだと」
「あなたが来た時、僕らはダディーが来たんだと思ったんです。
日本からダディーが僕達に逢いに来てくれたんだって。
嬉しくて、嬉しくて・・
僕らはあなたを奪い合う様に遊びに誘った。
ここはその時に見つけたんだ。日暮れまで遊んでアパートに
帰ると、そこではマムとグランマが言い争ってた。
絶対渡さないと言うマムと、生活力の無いマムに2人は育てられ
ないと言うグランマ。事実、家はお金に困ってた。
影山家からの養育費は、喉から手が出るほど欲しかったんだ。
子供の癖に大人の顔色で緊迫した場面なのが分かった僕は
黙っていたけど、エドは・・・
エドはあの時、満面の笑みでグランマに・・こう言ったんだ」
「・・僕、日本に行きたい。
ダディーと、飛行機に乗りたい・・か?」
「エド?」
「仁さん」
その時、31年前に時間は戻っていた。
記憶が戻った仁さんは、
バーニーと共に断片的な記憶を繋ぎ合せ、あの日を再現する。
それは・・とても辛い作業だった。
『僕、ダディーと飛行機に乗りたい!ね、いいでしょう?
バーニーも行こうよ。おみやげ買ってくるよ。
グランマにはキレイな毛糸でしょ?マムには日本のシャンプー。
ホラ、前に日本のはいい匂いだって言ってたよね。それから~』
『おやまぁ、エドは随分と楽しそうだ。
エドはやっぱりあの男に似てるよ。薄情者でアリスの事を忘れた
あの男に。ああ、とっとと行っちまいな。こっちも厄介者がいなく
なって助かるわ・・・稲垣さんって言ったっけ?
どうぞこの子、連れて行って下さいな。何ならバーニーもどうぞ。
この子達が生まれて5年、良い事なんかこれっぽっちも無かった。
アリスは毎日別れた事を後悔して泣いてばかり。
白人の血でも入ってりゃまだ良かったのに、また日本人だ。
自分がハーフで苛められたのもすっかり忘れちまって・・
荷物?そんなのははすぐ出来るさ。大した物なんかないし。
エド!お前は今日から日本人だ。
こんな国、さっさと忘れちまいな!!』
『グランマ!!エドがかわいそうだよ!やめてよ~!』
『マム!絶対いやよ。エドは渡さないから!』
『グランマ・・僕が嫌いなの?僕をいらないの?
お庭をグランマの好きなスミレいっぱいにしたのに・・
キレイだってきのう言ってたのに・・グランマ』
『あんなもの・・・キレイなもんかね・・』
『見てよ!!見てよ!グランマ。ほら、僕が種を蒔いたんだよ。
ねぇ、見てよー!ここから見えるよ、ね、来て見てって・・ば、
・・・・・・・・ギャーーーーーー!!!』
『エド!エドー!!マム、グランマ!
エドが・・エドが階段から落ちたー!!』
「仁さん!・・仁さん。大丈夫?」
「あぁ、少し頭が痛い」
「エド。全部思い出したか・・そうだよ。
エドはアパートの階段から落ちて、頭を打った。
意識が戻った時には、僕の事もマムの事も忘れてたんだ。
自分の名前も、何もかも。
それで、日本に行ったんだ。そして“影山 仁”になった。
それからは、さっき少し話したな。
翌年グランマが亡くなり、マムはますます酒に溺れた。
“エドに似てる”と言っては僕を抱き締め、
“エドに似てない”と言っては僕を殴った。
そして遂に入院・・・面会に行く度、僕に聞くんだよ。
“バーニー、エドはどこ?”って。
それでも僕はマムの笑顔を見たくて、必死に働いて勉強して、
ダンサーも目指した。でも・・ハハ・・全部、無駄だったんだ」
早朝にまた降った雨のせいで、
菜の花はまだ少し湿り気を帯びていた。
日が、暮れる。
あの日と同じような夕焼けが、菜の花畑に反射して、
それはそれは綺麗なオレンジ色に辺りを染めていく。
31年。
それは、長すぎる空白の時。
「稲垣さん、あなたですよね。僕に毎年養育費を送って下さって
いたのは。エドが日本に発ってしばらくは送金があった。
でもまもなく遅れがちになり、送金は止まった。
そして何故か僕が11歳の時、突然それは再開した。
・・大人になって調べたんです。その年あなたがダディーの奥さん
と再婚したって。エドも“稲垣 仁”に変ってた。
影山の家も大変だったんですね。ダディーと前園長が亡くなって、
奥さんは1人で、何もかも・・
あなたはずっと見守ってこられたんですか?エドと、その人を」
「そんなかっこいいもんじゃないさ。私も家内を亡くしていた
からね。お互い寂しくてくっついたみたいなもんだよ。
仁のことは、少しね。いつも気にはしてた。時々様子を覗きに
行ったりしてね。仁が、私の事を憶えていなくて助かったよ。
あれから6年も経っていたからね。おかげで新たに家族になれた。
美雪が死んで仁がダンサーになった時、実は正直複雑な気持ち
だったんだ。
仁にとっては美雪の為だったんだろうが、私としてはね。
本当の息子のつもりで育てても、やはり“血”は争えないのかと。
“蛙の子は蛙”なんだ、とね。
君だってやはり芝居の世界にいる訳だし。
・・バーナード、君には苦労を掛けてしまった。
だが、君は1つ大きな勘違いをしている。
君の事を、アリスさんは愛していたよ、心の底から。
時々届いた彼女からの手紙。その手紙には、いつも仁の心配と
君の自慢、そして君への謝罪が書かれていた。
・・君のミドルネーム、“シン”。
それは慎さんから貰ったんだそうだ。
君がシンだったから君に当った。君がシンだったから・・
君に甘えてたんだ。すまなかった。仁を許してくれないか。
仁も、苦しんだ時期があってね・・
あぁ、やっぱり私は親バカだな。心配で急いで飛んで来たんだ。
瞳が大袈裟に脅かすから」
「お、お義父さん!じゃ、まるで私のせいみたいじゃないですか」
「そ。ぜ~んぶ、瞳のせいだ。まったく年寄りをこき使いおって。
あれ?常さん。どうしました?」
「パパさん!あんたって・・あんたって・・いいパパねぇ。
ありがと・・仁ちゃんを、育ててくれてありが・・もどき~!!
細かい事は分かんなかったけど、あんたも大変だったのね~
ぐすっ、え~ん・・アタシを泣かせてどうすんのよ~~」
その時アルが、ぎゅっと私の手を握った。
今まで黙って大人の話を聞いていたアル。
私がアルの顔を覗き込むと、俯いてつま先で小石を蹴っている。
繋いだ手を大きく振ったら、しばらくしてクスクス笑い出した。
クスクス笑いが段々大きくなって、いつしかゲラゲラ笑っている。
そして仁さんの胸に飛び込んで行った
「ジン・・大好きだ。大好きだよ!
ジンがダンサーで、ヒトミがシンガーで。
だからオレたち逢えたんだ!
この人と兄弟だったから、逢えたんだよね。ありがとう」
「アル!もう!あんたって子は。何度アタシを泣かせればいいの~
ぐすっ・・ちょっと!もどき君!アタシまだ許した訳じゃないのよ。
アンタが劇団にした事。
あんたのせいで劇団員38人、路頭に迷ったんだから!
どう落とし前つけるつもりなの?
“嘘でした”で済むんだったら、NY警察はいらないってのー!!」
「ハッ!そうだ。僕にはその仕事があったんだ。
連載落とした事、これも謝罪しなければいけないが、そうだった。
まずそれですよね。仁!携帯貸してくれないか?」
「あぁ・・えっ?お前、今、仁って」
「エドワード・ジン・ワイズマンは31年前に消えた。
その事に早く気付くべきだったんだ。
ここにいるのは、紛れもない日本人の“影山 仁”だ。
ダンサーで、アクターで・・僕の、片割れのね」
「バーニー」
「あ、クリス?早速だけど頼まれてくれないか?
・・ん?バーナードだ。あぁ、仁の携帯借りたんだ。
ゴメンゴメン、無事だよ。何とか生き残った・・怒るなよ。
うん、皆一緒にいる・・仁?代わる?何だよ、急にソワソワして。
ねぇ、君がいくら迫ってもコイツはダメだよ。
“僕の兄嫁にベタ惚れだから”・・だ、か、ら、そんな事じゃない。
バカ!仕事の話だ・・・おい!君は僕の“友達”だろう?」
バーニーが笑っている。
蕩けそうな笑顔で、クリスにジョークを言っている。
傍では仁さんがアルを肩車して、菜の花の中で歌を歌っている。
♪ 菜の花畑に、入日薄れ
見渡す山の端 霞ふかし・・・
「後は帰ってからだ。ああ。分かってる、じゃあ。
仁!仁!その歌だよ。お前、その歌は憶えてたのか?
瞳が歌ってるの聞いて驚いたんだ。おもろ・・なんだっけ?」
「“朧、月夜”だ。有名な曲だよ。憶えてたって訳じゃないけど、
何故かな。俺のテーマソングみたいに、いつも頭の隅にあって・・
そうだ!ここで歌ったんだ。
ここで親父が教えてくれたんだ、そうだよな」
「お前が今、曲がりなりにもミュージカルなんかで喰っていける
のは、音楽的才能をこの私から受け継いだからだ。
お?もしかして私の歌、聞きたいのか?」
「いや、それは無い。断じて無い!
バーニー、俺達よくちゃんとあの歌憶えてたよ。
親父の歌は・・そりゃ、ひどいんだ。
音痴もあそこまでいくと公害だよ。耳が壊れる」
「ふふ、私も聴いたことある。あれは、確かに“衝撃的な音”よね。
ある意味・・個性的?じゃ私が歌うわ。アル、バーニー、聴いてね」
菜の花畑は、すっかり日が落ちていた。
薄暗い空に、菜の花の黄色が私達を照らしていた。
やがて西の空に、綺麗な月が昇ってくる。
それは遮る物も何も無い、
透明に輝く月だった。
コラージュ、mike86
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