鳳仙花が咲くまでに 17話 「獅子の目覚め」
操を失って、地下の部屋で号泣するバーニー。
だが、太王四神記の公演はまだ始まったばかり。
翌日、操の過去の真実を知ったバーニーは・・
いつの間にか、ここに来てしまった。
両親を心配させたくなくて、田舎には行けなかった。
きっと拓海は連絡して私がいないと分かれば、両親には
何も言わないはずだ。2年半前の入院の時の母の涙を、
拓海は憶えているだろうから。
未婚で妊娠し、流産した私。
その相手の名前を私は最後まで言わなかった。
「こんな目に遭ってるのに、
あんたその人をかばうのかい!」
母はそう言ったけれど、私はもう寺田の顔も声も、
すべてを忘れたかったから。
強情な娘に呆れ、そして母は泣いた。
ベッドの中の私の髪を撫でながら、ただ泣いてくれた。
今、拓海と同じ劇団にいる私に両親は安心している。
拓海は私が不幸になるのを黙って見ているはずが無い。
それを両親は何よりもよく知っていた。
思えば私は昔から、年下の拓海に護られていたのかも
知れない。
今降りた駅は、何と言う駅だっただろう。
確かに東京駅で、この町の最寄り駅だと聞いてきたのだ
けれど、もう駅名を忘れてしまった。
どうしてここに来たのか私にもよく分からない。
ただ、財布の中に入っていた名刺を見つけ、
気づいたら電車に乗っていた。
先生の元を離れる決心をしたのに、私はここにいる。
少しでも先生の香りのする町に立っている。
ここは先生の故郷でも、住んでいた場所でもないのだ
けれど。
駅前のケーキ屋さん、商店街の大きな本屋さん。
あ、ここは確か、瞳さんの話に出てきた店だ。
舞ちゃんの好きなイチゴがいっぱい乗ったショートケーキ
があって、いつも影山さんはこの店の前を素通り出来ない
事とか、散歩中に本屋さんに立ち寄った、お義父さんと影山
さんと先生が、何時間も立ち読みしていて夕食時になっても
帰って来なかった事とか。
ここは、影山さんの実家がある町だった。
・・海が近いんだ。
整備された駅前を歩いていた私は、
微かに香る磯の香りを感じていた。
『小さい町だけどいい所よ。海は綺麗だし魚も美味しいし。
ね、いらっしゃる時には遠慮なく連絡してね。
本当よ、社交辞令なんかじゃなく』
そう言われた時は、まさかこんな形で来る事になるなんて
思いもしなかった。しかもたった1人、先生の元を去って。
幼稚園を経営しているという影山さんの実家。
御両親と影山さんの苗字が違うのは、
過去の悲しい愛の結果だと聞いた。
私達が婚約した日。
先生の報告に嬉しそうに、私に酒を注いでくれた影山さん。
『これからは俺の妹だ。研究生だからって遠慮するなよ。
そうだ、もう影山さんなんて呼ぶな。仁でいい、仁で。
俺も操って呼ぶから。そうか、一緒になるのか。嬉しいな。
俺に妹が出来る・・よし。今夜は飲むぞ~!
操が飲める奴でよかったよ。さ、グッと行け。
おいバーニー、何やってんだよ、今日はお前がホストだろ?
ほら、ここ、酒追加!』
あれはまだ夏の終わり。
狭い稽古場下の私達の部屋での深夜の宴会。
影山さんと瞳さん、眠っちゃった舞ちゃん。
萌さんと拓海、そして先生。
本当に楽しかったあの夜。
窓辺で煙草を吸う先生の横で見た、花壇の鳳仙花。
肩を寄せ合う私達の間に、酔った拓海がふざけて割り込み、
先生に私を頼むと泣いたあの夜。
永遠にあんな時が続くと思っていた。
尊敬する先輩達に囲まれて、先生の傍でいつも笑って。
今頃、先生は何をしているだろう。
昨夜、私がいなくなったあの部屋でちゃんと眠れただろうか。
馬鹿だ、私・・
自分で決めた事なのに、たった一日でもう先生を心配してる。
部屋に残した一行の言葉。
先生はあれを読んできっと怒ったかも知れない。
そして、何も告げずに去った私に失望したに違いない。
それでも私は護りたかった。
先生と、
先生に愛された証しを。
タムドクの出に合わせ、舞台袖から劇場外に出た私は
そのまま駅に向かった。
本多劇場から少し離れた新劇場。
寺田の劇団の公演が行われているその劇場の前には、
出演中の人気アイドル目当ての若者達が外まで溢れていた。
盛況な様子と、TVクルーまで待機していたその光景に、
私は少し救われた想いだった。
“どうかこのままこの公演が成功しますように”
“寺田が、もう変な妄想に囚われる事なく、
真っ直ぐ演出の道を進めますように”
駅前の混雑を抜け電車に乗った私は、
シートに深く沈み、静かに携帯の電源を落とした。
さて。
これからどうしよう。
準備は3週間もあったのに、結局やったのは部屋の荷物の
整理と当面の先生の食事の用意だけ。
しっかり者みたいに思われて、同期生の色んな相談事や
悩み事に答えていた私。
でも本当の私は、単純なただの大酒飲みだ。
駅前の安いビジネスホテルに今夜の宿は確保したけれど、
(昨夜はあの新宿のバッテングセンターの傍のマックで
一晩明かした)
いくら安くても一泊3800円。食事をしない訳にいかないから、
私の貯金なんてすぐ底をついてしまう。
固いベッドにあぐらを掻き、
フロントにあった地元のミニコミ誌をパラパラめくる。
「住み込みの仕事なんか無いわよね、そう簡単に。
え?・・ここ・・」
‐‐‐‐‐
「そこは王の玉座だ、庶民は座れないぞ。
もっとも俺だって本番中1度も座らないけどな」
操が消えた昨夜。
稽古場下のあの部屋で、バーニーは号泣した。
初めて知った愛する人の温もりを失い、
このままどうにかなるのではと思う程、バーニーは泣いた。
やがて俺と拓海の制止を振り切るように部屋を飛び出した
バーニーは、それきり連絡が取れなくなっていた。
やっとその姿を見つけたのは昼過ぎ。
公演中の劇場の舞台上だった。
楽屋入りしたアキラが、王の玉座に呆然と座るバーニーを
発見したのだ。
「今までどこにいた。部屋には帰らない、携帯には出ない。
どれだけ心配したと思ってる。心あたりには全部電話して、
お前の行きそうな所も当った。もしやと思って村上に下北劇場
まで行かせたんだぞ。ちょうど主演俳優の帰りと重なって、
ファンと報道陣でえらい騒ぎだったらしいけど・・
今まで捜してたのか、操を」
「新宿の」
「ん?」
「新宿のバッティングセンター、さっきまでそこにいた」
「バッティングセンター?」
「前に操と行ったんだ。楽しくて、ずっと笑ってた。
また行こうねって。今度は私、シュートも打てるようになるって。
他に・・思いつかなかった」
「バーニー」
「僕は操の過去を何も知らなかった。それでいいと思ってたし、
今でも思ってる。でも仁・・もう1度教えてくれないか。
操は何て言ってたんだ?あの舞台袖で、あの時」
「あぁ。急に別れるって言い出して、俺も驚いてよく憶えてないが、
確か・・“寺田はキレると何をするか分らない。私には護るものが
ある、だから仕方がない。私も同じ失敗は2度としない”
あ?そうだ。どういう意味なんだろう。同じ失敗って」
「仁さん!そう言ったんすか?操は。
“同じ失敗はしない”って?」
「拓海」
いつの間にか、舞台に拓海が立っていた。
拓海は昨夜家に帰らず、飛び出したバーニーの代わりに稽古場
下に残り、もしかしたらひょっこり帰ってくるかも知れない
操をずっと待っていた。2人を結びつけたのは自分だからと。
無断でバーニーの元を去った操を自分が叱るんだ、と。
拓海は、1つ息を吐くと、思い切った様に話し出した。
「バーニーさん。操は、流産した事があるんです。」
「流産?」
「すみません。こんな事、言わずに済んだらよかったんだけど。
・・操は、2年半前に寺田に腹のガキを殺されたんです。あの男、
操が妊娠してるの知らずにあいつを殴ったんです。気を失うまで。
俺が駆けつけた時には操、血溜りの中で倒れてました。
赤ん坊、2ヶ月になってなかったそうっす」
「殴った。操を、寺田が」
「暴力は前からあったらしいんだ。
でもその時、寺田は自分の売込みに便宜を図って貰うために、
操の体を使おうとした。裏切られたと思った操は逃げ、
激怒した寺田は・・だから、操が護るものがあるってそう言った
んなら。2度と同じ失敗はしないって、そう言ってたんなら・・
もしかしてあいつ、妊娠してるんじゃ・・あいつ、自分がバーニー
さんといればまた子供に危害が及ぶって思ったんじゃないかな。
いや、それよりバーニーさん自身を護りたかったんだと思います。
あいつは、自分の事より、相手の事を想う奴だから」
バーニーの顔が急に変わった。
ここ数年、俺が見ていなかったあの顔。
初めてNYで逢った時に、俺を見つめていたあの表情。
全ての感情が凍ってしまったような、冷たい目。
触れたら切れてしまいそうな、鋭利な眼差し。
「おい。バーニー」
やがてバーニーは、左の口角をほんの少し上げて何回か頷くと、
静かに立ち上がった。
「バカだな、操。僕は何があっても愛してるって、
あれほど言ったのに。きっと彼から昔の僕の事も聞いたんだね、
だからあんな事・・分った、全部繋がった。
心配掛けてゴメン。仁、僕は闘う。そして操を取り戻す」
「闘う?取り戻すって、お前」
「安心して、仁。僕は馬鹿なマネはしない。
拓海、教えてくれてありがとう。そうか・・もしそれが本当なら、
操はきっと大丈夫。彼女は健全で優しい人だから。
自分の体もお腹のbabyもきっと大事にしていてくれる。
仁、拓海。この公演絶対に成功させよう。
四神記が劇団の新しい代表作になるように。
そして今年度の演劇賞を、四神記が全部掻っ攫うくらいに。
彼には少し代償を払って貰うよ。操の仇を取る訳じゃないけれど、
やられっ放しは僕のポリシーに反するからね。
それには出来たら“太陽”内部から崩れてくれると助かるかな」
さっきまでの抱き締めてないと壊れてしまいそうなバーニーは、
もうどこにもいなかった。
自信に満ち、生気を取り戻した、大人の男がそこにいた。
その変化は驚くほど見事で、こいつのほうこそ役者に向いてるん
じゃないかと、本気で思ったくらいだ。
ハーバード出の奴の考えは、やっぱり俺には分らない。
そうだ。
バーニーも操も、そんなに簡単に別れられる訳がないんだ。
この数ヶ月、俺はこの2人をずっと傍で見てきたじゃないか。
こいつが味方で、弟で本当によかった。
こんなのを敵に廻したらとんでもなくやっかいだ。
・・俺なら、迷わず逃げるね。絶対に。
公演は、まだ2日目。
朝と昼過ぎのワイドショーは、昨日の初日の模様を両劇団共に
紹介した。初舞台のアイドルと、韓国での話題のドラマの舞台化。
映像付きでインタビューもばっちり入った太陽と、
簡単な紹介のみの宇宙。
扱いは9・1くらいの割りで向こうが有利だけど、
100メートル走のスタートのピストルは今、鳴ったばかりだ。
宇宙の“太王四神記”公演期間は、約1ヶ月。
太陽の“ロミジュリ”も当然同じ日程だ。
楽日は12月23日。
それは奇しくも、俺達2人の誕生日。
そしてバーニーの、いや、俺達の闘いが本気で始まった。
初日から1週間。
何やら口コミが客を呼んでいるらしく、日に日に観客が増えて
行った。前売りチケットはネットでもプレイガイドでも遂に
完売し、毎日の当日券の行列は、どんどん長くなる。
俺のファンと、ずっと宇宙を応援し続けてくれているご贔屓客。
そして俺達も驚いた今回の口コミ客の正体は、
熱烈なヨンジュン家族だった。
彼女達のネットワークは目を見張るほどに迅速だった。
ヨンジュンを感じる為だけにやってきた彼女達が、芝居の面白さと
初めて体験するタップのリズムに、体中で興奮していく。
目を輝かせて劇場を後にする彼女達。
その興奮冷めやらぬネットでの発言が、また次の家族を劇場に
足を運ばせた。
「バーニー、寺田に代償って実際に何やるんだ?
集客数で勝負って訳じゃないだろう?相手の役者は大手プロダク
ション所属だぞ。ファンクラブもあるしチケットは完全SOLD OUT。
大体、本多とあそこじゃキャパが違う。
俺達がいくら満席にしたって向こうは1回で500人は多く入る。
同じ公演回数じゃ勝ち目はないじゃないか」
本番前。
バーニーは毎日あの玉座に座っている。
長い足を組み、じっと前を向き、客席の後ろのドアをずっと
見つめている。操が現れるのを待っているのか。
だがその表情は、とても穏やかだった。
「集客数?そんなのどうでもいい。僕が言ってるのは、この公演が
終わった後さ。千秋楽、いや、もう少し後かも知れない。
断言してもいい。“太陽”は無くなるよ」
「無くなる?潰れるってことか!」
「少しニュアンスは違うかも知れないな。
でも少なくとも主要メンバーは退団するだろうね。
特に、創立当時からいる古いメンバーほど」
「・・お前、なにやった?」
「何もしてないさ。そう・・何もしてない。
ただ、研究生に協力してもらってはいるよ。
僕は顔知られてるから」
「協力?何が出来るってんだ、まだろくに何も出来ない
研究生に」
「声を掛けてもらってる」
「声?」
「今の太陽の公演。客の9割以上はあのアイドルのファンだ。
本来の太陽の客は殆どいない。寺田が劇団員にチケットを渡さ
なかったから。寺田は劇団員にこう言ったらしい。
“ノルマから開放されて嬉しいだろう。もう俺達はメジャーだ。
あくせくチケット売らなくても客は入ってくる”って。
そうだね、確かに楽だ。チケットが完売ならギャラだって出る。
だけど同時に彼らは自分を応援してくれていた客を失ったんだ。
それって、とても寂しい事だろう?
客の目は全部主演の2人に向けられている。
自分達はただのその他大勢だ。
いい芝居したって誰も自分達を知らないし、気づいてもくれない。
ボスの寺田は自分達の事など完全に無視している・・
そんな時アンコールで声掛けるんだ。
大勢のアイドルファンの声援の中、“影山!!”ってね。
研究生達の声は通る。彼らには聞こえるよ」
「そうか、心理戦だな。その拍手が自分に向けられたものじゃ
なくても、太陽以外でならやり直せると思うよな。
寺田の傍にいたら、いつまで経っても自分は捨て駒だ。
俺だったら公演中だって辞めるかもな」
「だよね」
平然と言い放つバーニーは少し笑っていた。
そしてその目は、舞台の上から遠い何かを見つめていた。
「代表なんだ。代表を見てて思った。
僕達が自由に好きな事が出来るのも、宇宙の為に頑張ろうって
思えるのも、代表がいつも僕達を信んじていてくれるからだ。
前に仁、言ったよね。
“代表は、山に登る時は懸命に励ましてくれるし、
船が沈む時には絶対一緒に沈んでくれる”って。
寺田には代表の様なそんなカリスマがない。
仲間がいない劇団じゃ、何にも出来ないのにね。
人が作るんだよ、すべては」
眠っていた孤独な“虎”が、
愛と仲間を得て雄雄しい“獅子”として目覚めた。
そのバーニーの姿を見て、
俺にはそんな言葉が浮かんできた。
コラージュ、mike86
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