創作の部屋~朝月夜~<40話>
あてもなく、僕は東京の街を彷徨い歩いた。
景色を作り出す色も光も音も、何も目に入らず、聞こえず・・・。
それでも僕は歩き続けた。
言葉の壁に行き当たっては、ユキに依存していた恋愛に対する姿勢を思い知らされた。
日本語を覚えよう・・・そんな初歩的な努力も怠っていたことを後悔した。
ユキの行動力の素早さは、別れの決心の深さを物語っていた。
愛しているなら我慢もし、耐えて待っていてくれるだろうと言う考えは、僕の身勝手な傲慢であったのだと気がついた。
今、僕自身の中に存在する全ての「誠意」を掻き集めても、ユキの心を動かすだけの力はないように思えた。
僕は自分の不甲斐なさを背負い、ソウル行きの最終便に乗った。
眠れない夜を過ごしても、必ず朝はやって来る。
ソファの上には脱ぎ捨てた洋服。
テーブルには琥珀色の液体が入ったグラス。
放り出された携帯電話。
頭の奥がずきずきと痛む。
いつの間にか眠ってしまったのだと気づいた。
水を飲むために冷蔵庫の扉を開けた。
しおれたレタス。
熟れ過ぎたトマト。
賞味期限切れのパックに入った惣菜。
飲み残しの牛乳。
それらを処分し、溜まった洗濯物を片付けた。
散らばった新聞や雑誌を集め、水気を失った観葉植物に水をやった。
日常の仕事に没頭することで、東京で見てきた「現実」を忘れられそうな気がした。
夕暮れ時になって、今夜飲むための酒とひとり分の食材を求めて街に出た。
背中を叩かれ、振り返ると見知らぬ女が笑みを浮かべて立っていた。
反応のない僕に「私って印象薄いのかなあ?」と女が言った。
女は、これでも解らない?と言いたげに、目の前で水割りを作る仕草をした。
そこで初めて、数日前ふらりと入った店の・・・名前も憶えていないが・・・あの時のショートカットの女だと思い出した。
「ひとり・・・だよね?」
女は馴れ馴れしく僕の腕を取ると、上目づかいで僕を見上げ、「一緒に行かない?」と言った。
いわゆる同伴出勤というヤツだろうと僕は思った。
「悪いが、今日はそういう気分じゃないんだ」
「う~ん、そうなんだ・・・・残念」
言葉とは裏腹に女は掴んだ腕を緩める気配がないままに、「じゃあ、コーヒー・・・!コーヒーならいいよね?」と、強引に近くのカフェに僕を引っ張って行った。
先週観た映画のこと。
店のマスターが女好きであること。
同僚の女の子が最近、恋人と別れたこと。
前から欲しかった洋服をやっと手に入れることができたことなど、僕に関係のないことを女は一人で喋り続けた。
僕は、「ああ・・・」とか、「うん・・・」とか適当に相槌を打つだけだった。
意見を聞くわけでもなく、同意を求めるわけでもない一方通行の女との会話は、煩わしさよりも、むしろ僕をリラックスさせた。
「結婚してるの?」
「恋人いる?」
「お仕事は何?」
などと、矢継ぎ早に質問されたら、1分もしないうちに僕は席を離れていただろう。
喋り尽くした女は、僕の左腕の時計を覗き込むと「いけない!時間だわ!」と、言いながら立ち上がった。
バックの中からおもむろに財布を取り出すと、紙幣をカップの下に挟み込んだ。
「いいよ、僕が払う」
「いいの、いいの。私が誘ったんだから。その代わり、近いうちに店の方に顔を出して」
「憶えてないんだ。店の場所」
おおよその見当はつくが定かではなかった。
「えっ~憶えてないの?」
女は不満そうな表情で、またバックを開けると名刺を取り出した。
「この間、タクシーに乗る時、おじさんの上着のポケットに入れたんだけど・・・」
「おじさん・・・?」
「だってぇ・・・名前知らないもん」
確かに女の言うとおり、僕たちは名乗り合う間柄ではなかった。
「今度、会ったら教えて」
女は名刺ケースをバックに放り込むと、再び僕の腕時計に目をやり、「遅刻しちゃう~!」と叫んだ。
「ウチのマスター、女にはルーズなくせに時間には厳しいの」
聞き耳を立てている者は誰ひとりいないのに、女は僕の耳元に小声で囁くと、「じゃあね!」と言って、軽やかな足取りでカフェの外に出て行った。
『 洋風居酒屋 「再会」 マリー 』
店名と女の名前と、その下に店の電話番号が印刷されただけの地味な名刺を手に取った。
もう一度あの店に行く気はなかった。
マリーか・・・。
偶然が重ならない限り、君との「再会」はないだろうなと、僕は心の中で呟いた。
そして、ユキとの再会は、さらに困難な気がした。
マリーが置いて行った名刺をソーサーの下に忍ばせて、僕はカフェを出た。
翌日、僕は久しぶりにスジョンを見舞った。
玄関に現れたスジョンの母が、奥にいるスジョンを呼んだ。
エプロン姿のスジョンはとても元気そうに見えた。
口数は少なかったが、時折笑顔さえ見せるスジョンを見て、僕は安心した。
心の傷は癒えたのか・・・?
もう、大丈夫なのか・・・?
尋ねたい気持ちを抑えて、他愛のない世間話だけをして、スジョンの家を後にした。
夜半、電話の音で目が覚めた。
電話が鳴るたびに、ユキからでは・・・と期待する僕がいた。
声の主はスジョンの母だった。
「スジョンが・・・スジョンが亡くなったの」
取り乱したスジョンの母の声に、僕の体は一瞬にして凍りついた。
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