創作の部屋~朝月夜~<34話>
スジョンの病室のあるフロアで、エレベーターを降りると、僕の姿を見つけて、看護士が走って来た。
「よかった!どちらに行かれたのかと探してたんです。スジョンさんがさっきからずっと・・・呼んでいて・・・」
看護士が言い終わらない内に、僕は病室へと急いだ。
「早く連れて来て!」
スジョンの叫ぶ声と、なだめる看護士の声が廊下にまで聞こえた。
「スジョン、どうしたんだ」
僕が声をかけると、スジョンは恨めしそうな目で僕を見上げた。
「奥さんとふたりで、何を話してたの?」
「奥さん・・・?あの人は、違うよ・・・」
「じゃあ、誰なの!」
誰なのかと聞かれて、僕は答えることができなかった。
「落ち着いて、聞いて」
僕は、スジョンの両肩に手を添えた。
スジョンは、その手を払いのけると、「奥さんに触った手で、私に触らないで!」と叫んだ。
「スジョン!しっかりしてくれ!」
僕は、思わず大きな声を出してしまった。
「スジョン・・・僕は、キム・インス。今は別れてしまったけど、君の夫だったキム・インスだ。解るよな・・・?」
スジョンは唇を噛みながら、さっきと同じように恨めしげな眼差しを僕に向けた。
「別れた・・・?夫・・・?」
「そうだ・・・。僕たちは離婚した。それは君の意思でもあった。忘れたのか?」
「離婚・・・?おかしい・・・」と、言うと、スジョンは突然笑い出した。
「何がおかしい」
僕は、腹立たしい思いを込めてそう言った。
「だって・・・私たち、これから結婚するんじゃない」
僕たちは、成り立たない会話をしばらく繰り返した。
スジョンに夕食を食べさせた後、看護士にスジョンを託し、僕は病室を出た。
飲んでも酔えないことは解っていたが、自宅に着くなり、僕は酒を飲み始めた。
今日1日の出来事が、頭の中を駆け巡っていた。
「必ず守ると約束してくれますね」
ユキの友人の断定的な言葉は、僕にとっては意外だった。
そんなこと、当然のことじゃないか。
僕は、少しの皮肉を込めて、「僕がそんなに頼りない男に見えますか?」と、言った。
「そうじゃなくて。さっきの・・・献身的な・・・私にはそう見えました・・・。インスさんの姿を見て、不安になったんです」
「ユキの元に戻って来られなくなってしまうんじゃないかって・・・。ふと、そんな気がしたものだから・・・」
「ユキのことは、僕が必ず守ります。約束します」
「その言葉を聞いて安心しました。失礼なことを言って、ごめんなさい」
彼女は、僕に向かって小さく頭を下げた。
「先ほどから、気になっていたんですが。今のところ順調とは・・・どういう意味でしょうか?」
「え・・・私、そんなこと言いましたっけ・・・?」
彼女の顔色が、一瞬変わったように思えた。
「ええ、確かに。どういう意味でしょう?」
重ねて尋ねる僕に、彼女は明らかに狼狽の表情を見せた。
「ユキは、あなたとお付き合いしていることを、隠していました」
意を決したように彼女は話し始めた。
「好きな人がいる・・・韓国の人だと聞いた時は驚きました」
「あ・・・別に深い意味はないんです。いつも一緒にいられない人との恋をどうしてユキは選んだのかな・・・って」
「好きな人とは、いつも一緒にいたい。誰でも思うことですよね?」
僕は、黙ってうなずいた。
彼女が僕を責めるつもりで言っているのではないことは、十分解っていながら、心が疼いた。
「おなかに子供がいると知ったのは、数日前です」
ここで彼女は、言い澱んでしまった。
僕は、何かあったな・・・と直感した。
「職場のトイレで苦しんでいるのを私が見つけたんです」
僕の直感は外れてはいなかった。
「その時初めて、ユキが妊娠しているのだと解りました」
騒ぎになることを恐れて、救急車を呼ぼうと言う彼女の言葉をユキは拒んだと、彼女は話した。
「私がタクシーに乗せて、病院まで連れて行きました」
ユキは、愛し合ってるとは言え、未婚でありながら妊娠していると言う事実を公にしたくなかったのだろう。
「幸い大事に至らず、今日あたりは自宅に戻っていると思います」
大事に至らず・・・と言う、彼女の言葉を聞いても、僕の心は晴れることはなかった。
このところ、新しく企画された仕事のこととスジョンのことに意識が集中して、ユキに電話もしていなかったことに気付いた。
自分の責任感の無さに僕は言葉を失った。
「ユキにこのことはけして言うなと、口止めされていました。ですから・・・知らないふりをして下さい」
「忙しいあなたのことをユキはとても気遣っていました。余計な心配をかけたくないと思っているんです」
今にも大声で叫びそうになる自分を僕は、必死に抑え込んだ。
「医師は何と・・・?」
「今回は無事に済んだけれども、無理はしないようにと言われたそうです」
彼女の言った「今のところ・・・」と言う意味がはっきりと理解できた。
「超音波の胎児の写真は、心配しないでね・・・と言う、ユキからのメッセージです」
最後にそう言って彼女は席を立った。
別れ際、「今日のことは・・・」と言い出した僕を制して、「解っています」と、彼女は言った。
「今日、病院で見たことは忘れました。ユキがインスさんを気遣うのと同じように、私もユキを気遣ってやりたいんです。大切な友達ですから」
僕は、改めて彼女に礼を言った。
「できるだけ、ユキと連絡を取り合ってくださいね。元気な声を聞かせてあげること・・・それがユキには一番うれしいことだと思います」
そう言い残して、彼女は帰って行った。
ユキの友人との会話が、鮮やかに甦って、酒の力を借りても一向に、頭は冴え渡るばかりだった。
ユキに対して、申し訳ない気持ちが溢れて、電話をする勇気もなく、僕はひたすら酒を飲み続けた。
創作の部屋~朝月夜~<33話>
「カン・スジョンさんのご家族の方ですか・・・?」
僕は、ナースステーションの前で、若い看護士に呼び止められた。
「ええ・・・」と返事をすると、スジョンが4人部屋から個室に移ったと知らされた。
教わった病室の前に着いたとたん、何かが割れる音とスジョンの大きな声が聞こえた。
ドアを開けると、ベッドの周りには、割れた食器の破片と飲食物が散乱していた。
病室の外まで聞こえた派手な音は、スジョンが夕食用のトレイをひっくり返した音だった。
義母が蹲ってそれを拾い集めようとしていた。
音を聞きつけた看護士は、病室の様子を見るなり、「あら!あら!」と大げさな声を上げて、清掃係を呼びに行った。
スジョンは唇を噛みしめて、じっと僕を見ていた。
「スジョン・・・?」と、呼びかけた瞬間、枕が飛んで来た。
「どこに行っていたの!私を置いて・・・どこに!」
スジョンが叫んだ。
この時、僕はスジョンに言葉が戻ったのだと単純に喜んだ。
「地方で仕事だったんだ」
「嘘!そんなの嘘よ!」
「嘘じゃない。今、その帰りで・・・」
僕は、普通に会話しているつもりだった。
「奥さんとずっと一緒だったんでしょう!私をひとりにして・・・」
そう言うと、スジョンは大きな声で泣き出した。
目の前のスジョンは普通ではなくなっていた。
ひとしきり泣くと、スジョンは急に静かになった。
「スジョン、少し眠ろうか・・・」
僕は、恐る恐る言葉をかけた。
スジョンは、静かにうなずくと目を閉じた。
「この1週間、ずっと、この繰り返しなの。泣き喚いて他の患者さんから、苦情が出たのよ。それで、個室に変わったの」
「連絡をくれたらよかったのに・・・」
ひとりで、うろたえていたであろう義母を思って、僕は言った。
「忙しく仕事してるあなたに、そんな電話はできないわ」
「それに・・・あなたはスジョンとは離婚しているんだもの・・・。こうして、来てくれることだって、申し訳なく思っているのよ」と言って、義母は声を詰まらせた。
心が壊れてしまうほどに、スジョンはあの男のことを愛していたのか。
しかし、スジョン・・・。
君が思っているほど、あの男は君を愛してはいなかったよ・・・。
眠っているスジョンを見下ろしながら、僕は、心の中で呟いた。
その夜、僕はユキに電話をかけた。
地方での仕事を終えて、今日、帰宅したことを報告し、ユキの体の状態を尋ねた。
ユキは、心配することは何もないからと、明るく答えてくれた。
今、僕が側にいなければならないのは、スジョンではなくユキなのだと僕は自分に言い聞かせた。
スジョンの荒れた症状は、それからもしばらく続いた。
幼い頃に父を失ったスジョンは、兄弟もなく、肉親と言ったら年老いた母ひとりだった。
その母に疲労の色が濃くなっていった。
我関せずと、割り切れたらどんなに楽だろうと、僕は思った。
スジョンは、別れた妻なのだ。
しかも離婚の原因は、スジョンの浮気だった。
ここで、僕がこの親子から手を引いたとしても、誰も僕を咎める事はないだろう。
そう思いながらも、僕は、スジョンと義母を見捨てることができなかった。
とりあえず、この山を越えなければ、ユキとの幸せな生活は手に入れられないような気がしていた。
その日、仕事が休みだった僕は、朝からスジョンの病室に行き、疲れ果てた義母に、家に帰って休むように勧めた。
義母は、何度も「悪いわね・・・」と言いながら、申し訳なさそうに帰って行った。
スジョンに昼ごはんを食べさせ、ナプキンで口元を拭ってやっていた時、背後で「キム・インスさん?」と呼ぶ声が聞こえた。
振り返ると、見覚えのない若い女性が立っていた。
病院内のカフェで、向き合って座ると「ユキの友人のAです」と、彼女は名乗った。
そして、ユキと同じ韓国語の通訳の仕事をしていること。
ユキとは、職場で知り合ったことなど簡単な自己紹介をしてくれた。
「ユキから教わったインスさんの・・・そう、お呼びしてもいいでしょうか」
僕は黙ってうなずいた。
「携帯電話に、何度か電話しました」
ポケットから携帯電話を取り出して画面を見ると、非通知の着信履歴が表示された。
「病院内なので、電源を切っていました」
「連絡先として、インスさんの会社の電話番号をユキから聞いていたので、そちらに電話をして・・・ここが解りました」
「そうでしたか、すみません」と僕は、言いながら、彼女の来訪の意図を考えていた。
「ユキから、お忙しい方だと聞いていたので、地方にでも仕事に行かれているのかと思っていました。それが・・・」
彼女はそこでいったん言葉を区切ると、「病院と聞いて、あなたが怪我でもされたのかと思いました」と言った。
「電話では詳しいことを聞かなかったので・・・病院に着いて、初めて・・・入院されているのが、離婚された奥さんだと・・・知りました」
僕は、何と答えていいのか迷った。
それを察してか、彼女が再び口を開いた。
「今日は・・・こちらで仕事があったので・・・。ユキに頼まれたものを持って来ました」
彼女は小さな紙片を僕の前に置いた。
写真のようなその紙には、ぼんやりとしたものが写っていた。
水の中に何かが浮遊しているような・・・。
「超音波で見たユキのおなかの中の赤ちゃんです」
彼女は、僕の反応を確かめるような言い方をした。
僕は、テーブルに置かれた紙片を取り上げると、そこに視線を落としたまま「順調に育っていますか?」と聞いた。
「ご心配なく。今のところは順調です」
「今のところ」と言った彼女の言い方が気になった。
だが、それよりも、形もまだ定まらない小さな命が・・・。
確かに、ユキの中で息づいていると言う事実がうれしかった。
「インスさん・・・初対面のあなたに、こんなことを言うのは失礼なことだと・・・充分解っています」
紙片を見つめたままだった僕は、彼女の顔に視線を移した。
「ユキのこと・・・おなかの赤ちゃんのこと、必ず守ると・・・約束してくれますよね」
真正面から僕の目を見て、彼女はきっぱりと言った。
創作の部屋~朝月夜~<31話>
心が浮き立つというのは、こういう感覚を言うのだろうか。
太陽の日差しは、そのまますべて僕のエネルギーとして吸収され。
雨さえも、祝福のシャワーのように感じる。
すれ違う子供が、どの子もかわいく見えて。
愛する人のため。
そして、小さな命のために。
今日も、頑張ろうという気になる。
「最近、楽しそうだなあ。新しい恋人でもできたのか?」
先輩の冷やかしにも、笑って答えられる僕がいた。
1週間前のことだった。
「今、話しても大丈夫ですか?」
ユキからの電話は、いつもこの言葉から始まる。
その日、僕はソウルから離れて、海に近い地方の街にいた。
Mのコンサートが好評だったおかげで、次々と仕事の依頼があり、僕は多忙を極めていた。
ユキと最後に会った日から、すでに2月が経過していた。
「お知らせしようか、どうしようか・・・って、今日まで迷っていました」
少しの沈黙の後、ユキは妊娠したことを僕に告げた。
何を迷う必要があるんだ・・・そう言いたかった。
しかし、数日間、たったひとりで「妊娠」と言う事実を抱え込んでいたユキを思うと、僕は一瞬、言葉に詰まった。
「ユキ・・・迷う必要なんてないんだ。今・・・僕はすごくうれしいよ」
「本当に・・・?」ユキが遠慮がちに尋ねた。
「本当に」僕は、力強く答えた。
「あの時、私は妊娠することは本意ではない・・・と言いました」
ユキは静かな口調で話し始めた。
「でも・・・実際に小さな命が宿ると・・・まして、それがあなたの子供であると思うと・・・愛しさがこみ上げてきて・・・」
ユキの声が小さく震えた。
「自分ひとりの意思で、どうこうできるものではないと・・・」
「どうこうできるものではない・・・って、どう言う意味?まさか・・・バカな事考えてるんじゃないよな?」
僕は、思わず声を荒げてしまった。
「産んでもいいのかな・・・って」
「ユキ・・・選択肢はひとつしかないんだ。そうだろう?産んで・・・ふたりで育てる。それしかないんだ。解ってるよね?」
「うん・・・」
ユキの小さな嗚咽が聞こえた。
「ユキ・・・側にいてあげられなくて、ごめん。仕事が一段楽したらすぐに行くから。それまで、体を大切に。けして、無理をするなよ」
ユキは、涙混じりに何度も「うん、うん」と頷いた。
それから僕は、毎晩のようにユキに電話をした。
「順調?」
「変わりない?」
「早くユキのお父さんに挨拶に行かなくちゃ・・・。」
「お父さんは、ソウルで暮らすことを許してくれるだろうか?」
「名前はどうしよう?」
毎晩、同じようなことを話し合いながら、僕の心は喜びに満ちていた。
めずらしく仕事が早く終わった日、「たまにはみんなで飲みに行こう」と、誰かが言い出し、雰囲気は一気に盛り上がった。
僕は、こういう日だからこそ、早くユキの声が聞きたかった。
「付き合い悪いなあ」
「彼女が待ってるのか?」
からかう仲間の声を背中に聞きながら、僕は自宅に向かった。
ポケットから、鍵を出してドアを開けようとした時、携帯電話の着信音が鳴った。
ユキだろうか・・・。
ドアを開けながら見た携帯画面には、スジョンの母の名前が表示されていた。
「はい・・・」
「あ・・・インスさん?まだ、お仕事中だったかしら?」
「いえ・・・たった今、帰宅しました」
「そう・・・。あの・・・スジョンのことなんだけど」
「スジョンが何か・・・?」
「連絡が取れないのよ・・・それでね、スジョンの行きそうな場所・・・見当つかないかしら?と思って・・・」
正式に離婚した「元夫」である僕に、電話なんかして申し訳ないわね、と言う義母の気持ちが声に表れていた。
僕は、何だか面倒なことになりそうな予感がした。
「実は・・・スジョンが3日ばかりホテルに籠るって。原稿を書くとか何とか言ってね。そのホテルが、あのホテルじゃないかって気がして・・・」
僕にとって、義母の言うことは、まるで要領を得ないことだった。
「あのホテル・・・って?」
「あら!ニュース見てない?」
「ええ・・・今、帰ったばかりですから」
「火事になったのよ!」
突然、義母の声が大きくなった。
「宿泊客の中にスジョンがいる・・・って、言うんですか?」
「どうしよう・・・」
「どうしようって、警察には問い合わせましたか?」
「まだ・・・。なんて聞いたらいいのか・・・」
電話の向こうに、おろおろするばかりの義母の姿が見えた。
「カン・スジョンさんのご主人?」
警察に着くといきなりそう聞かれた。
「いえ・・・スジョンとは別れました」
「こちらは、お母さん?」
義母は黙って頷いた。
警察官は「カン・スジョン・・・カン・スジョン・・・」と呟きながら、ホテルから提出された宿泊者名簿をめくった。
「あ・・・あった、これだ」
僕と義母は宿泊者名簿を覗き込んだ。
PCで打ち出された名簿からは、スジョンの筆跡を見ることはできなかった。
「収容先の病院は・・・」と、警察官は、3つの病院の名前を挙げ、「このいずれかです」と言った。
「生死の確認は?」
僕の問いかけに警察官は、「とにかく、病院に行ってみてください」とだけ言った。
僕は義母を促して席を立った。
「あ・・・ちょっと、待って。同行者1名とありますが・・・お心当たりは?」
僕と顔を見合わせた義母は、気まずそうに視線を逸らせた。
「心あたりはないんですか?」警察官が重ねて聞いた。
「多分、あの人だと思いますけど・・・」と、義母は曖昧な返事をした。
「可能性があるなら、連絡してみてください」
警察官は、義母に電話機を差し出した。
「電話番号は知りません」
「名前は?勤務先とか・・・それが解ればこちらから連絡してみますが?」
義母は、僕の様子を窺いながら、ひとりの男の名を言った。
僕が初めてスジョンの浮気を知った日・・・。
家の前でスジョンと抱き合っていた男・・・。
あの時の光景が僕の脳裏に甦った。
創作の部屋~朝月夜~<30話>・・・【R"】
もうそろそろ着いてもいい頃なのに・・・。
私は、何度もキッチンの時計を見上げた。
インスがここに来るのは、今日で2回目。
やっぱり、迎えに行くべきだったかしら・・・。
空港まで、迎えに行くと言ったのに、インスは「ひとりで大丈夫」と言ったのだった。
初めて私の部屋に来た時、インスは、テーブルの上に並んだ手料理を見て、とても喜んでくれた。
また、あの笑顔が見たくて、私は朝からずっとキッチンに立っていた。
Mのコンサートを観にソウルまで行き、思いがけずインスとふたりだけの時を過ごせた。
コンサートは大成功に終わり、その直後、インスは約束どおり、私に会いに日本に来てくれた。
そして、今日、インスが再びこの部屋に来る・・・。
それにしても遅い・・・。
私は、心配になって、駅まで迎えに行ってみようと思った。
エプロンをはずしかけた時、チャイムが鳴った。
ドアを開けると笑顔のインスが立っていた。
インスは、私の心配をよそに、部屋に入るなり、今、撮って来たばかりの写真の話しを始めた。
デジタルカメラの中には、咲き乱れた菖蒲の花が写っていた。
遅かった理由はこれだったのね・・・。
と、私は思った。
駅から、私の部屋まで来る途中にある公園は、毎年この時期、菖蒲の花を見に来る人々で賑わっていた。
私は、仕事が忙しくて、季節の移ろいにすっかり疎くなっている自分に気づいた。
「おなかすいたでしょう?ご飯にする?それともお風呂?」
インスが手料理とともに、暖かいお風呂を喜んでくれたことを私は憶えていた。
そんな私の問いかけにインスは、まるで夫婦みたいだと言って笑った。
「ご飯よりも、お風呂よりも君がほしい・・・と言ったら?」
そう言うとインスは、エプロン姿の私を抱き寄せた。
「ユキ・・・会いたかった。」
インスのキスを受けながら、あなたが望むなら・・・と、私は心の中で呟いた。
インスの腰に回した私の手に自然と力が入る。
そんな私を楽しむように、インスは、私の両頬を大きな手で包むと、「楽しみはあとで・・・」と言って、浴室に入って行った。
インスは、私の作った料理をおいしいといって食べ、少しのお酒を飲んだあと、「ちょっと横になる・・・」と言って、ベッドに入った。
昨日一日仕事をして、今朝一番の便でソウルを発って来たインス。
話したいことはたくさんあるけれど、ゆっくり休ませてあげたい。
なるべく音を立てずに食事の後片付けをして、私は、インスが持ってきた韓国の雑誌をキッチンのテーブルに広げて読んでいた。
2冊の雑誌には、それぞれMのコンサートの好評が書かれ、照明効果を絶賛する文章と、インスの顔写真が載っていた。
雑誌の中の緊張したインスの表情がなんだかおかしくて・・・私はひとり笑いをしながら、そのページを見ていた。
外は、うっすらと日が暮れ、静かな夕闇が辺りを包み始めていた。
「ユキ・・・?」
寝室から、インスの声がした。
「今、何時?」
私は、時計を見上げて答えた。
「ずいぶん眠ってしまったな・・・起こしてくれたらよかったのに・・・」
キッチンで水を飲みながら、インスが言った。
「疲れてるんじゃない?」
私の問いかけに答える代わりに、インスは、私の腕を取ると、寝室に引っ張って行った。
「疲れてなんかいないさ・・・」
そう言うと、インスはいきなり私をベッドに押し倒した。
両腕は、耳の横でインスの両手に捕らえられ、体全体はインスの重みで押さえつけられ、私は身動きできない状態になった。
「乱暴にするのはルール・・・」
違反だわ・・・そう言いかけた唇もインスによって、自由を奪われてしまった。
インスの右手は私のTシャツをくぐり、ブラを跳ね退けて乳房を掴んだ。
私は、わずかに自由が残っている足先をバタつかせて抵抗を試みた。
しかし、それも瞬時のことで、インスの舌の動きと指先の感触に、抗う力は息を潜めてしまった。
力を失った体から、ジーンズが離れ、下着が離れて行った。
「こう言う姿・・・妙に色っぽい」
Tシャツとブラは着けたままで、下半身だけが剥き出しになった私をインスは見下ろしながら、いたずらっぽく笑った。
膝を割って今にも侵入してきそうなインス。
私は「待って・・・」と囁いた。
「待てない」
インスから即座に答えが返って来た。
「待って」
私は再び同じ言葉を囁いた。
「今日は、危険日なの・・・」
かつての恋人Kは、絶対に避妊具を使わない人だった。
「そういうことはさ・・・倫理感に反するんだよな。SEXは神聖な愛の行為だよ。たとえ薄いゴム1枚でも、ふたりの間に隔たりが生じるって事が嫌なんだよ・・・」
幸い私は、周期が狂うことのない体質だったので、カレンダーに「○印」をつけて、妊娠することを避けて来たのだった。
「危険日・・・?」
「着けて・・・そうでないと・・・できちゃう・・・」
インスにもやっと事態が理解できたようだった。
なのに、インスは一向に私から離れようとせず、「そんなもの、持っていない」と言った。
「それに・・・結婚するんだ。構わない」
「ダメよ・・・」
私は、そう言いながらも、強引に突き進むインスをもはや拒むことができなくなっていた。
インスの逞しい肉体は、冷静になろうとする私を押し流し、快楽の海に溺れさせた。
「怒ってる?」
半身を起こしてインスが尋ねた。
「怒ってないわ・・・でも、今はまだ、その時期じゃないと思う・・・」
これは私の本心だった。
Mのコンサートで再会した頃から、インスは、頻繁に「結婚」と言う言葉を口にするようになった。
確かに、私にとってはうれしいことだったけれど、その前に考えねばならないことが山ほどあると思えた。
仕事のこと。
実家の父のこと。
結婚後の住いのこと。
ひとつひとつ超えて行くには、もう少し時間が必要だと思った。
つかの間の逢瀬であることが解っていた私たちは、別れの朝まで、何度も体を重ねた。
「子供がほしい・・・。ユキと僕に似た子供」
これは僕の正直な気持ちだと、インスは私を抱き寄せるたびにそう言った。
「でも、ユキの気持ちも尊重しないといけないね」
インスの体から放出された愛の証は、私の中に注がれることなく、太腿や乳房、背中を濡らした。
「夜、ユキを残して、帰れない」
そう言って、早朝の便を選んだインス。
駅までの道、手を繋ぎながら見上げた朝月夜。
足元には紫の菖蒲の花。
どちらの美しさも・・・。
そしてそれを眺めるインスの横顔も・・・。
ずっと、憶えていたいと思った。
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