「朝月夜」(アサヅクヨ)⑦・・・こちらは戯言創作の部屋。
昨夜、電話で聞いた彼の声は、かつての恋人Kにそっくりだった。
そのせいか、ここ数年、忘れようとしていたKのことが思い出されて、ゆうべは眠れなかった。
洗面所の鏡の前に立つと顔色のよくない私が映った。
トイレで用を足し再びベッドに潜り込んだ。
7:30・・・彼はもう起きているだろうか。
なんとなく体がだるい・・・。
熱いコーヒーが飲みたい・・・。
そう思いながら、またうとうとと眠ってしまった。
目覚めた時には、昼に近くになっていた。
病院の面会時間は、原則として15:00~20:00と決まっていた。
諸事情を考慮して、病院側もうるさくは言わなかったが、特に介護を必要としない患者の家族は面会時間を守るようにと入院の際に、一応の注意は受けていた。
それは患者の静養を第一に考える病院の方針でもあった。
どこかで、昼食を済ませて、それから病院に行こう。
彼は私がついていなくても何でも自分でできるんだし・・・と、言い訳染みたことを思った。
ホテル内のカフェで、熱いコーヒーを飲んでやっと目覚めた気がした。
サラリーマンらしき男性と、若い女性が入ってきて、私の斜め向かい側に席を取った。
昼休みのランチタイムなんだろうか。
女性は、コートの下に若草色のセーターを着ていた。
その鮮やかな色を見て、セーターとブラウスを買おうと思っていたことを思い出した。
彼にも何か買っていこうか・・・昨日はケーキだったから、今日は果物でも・・・。
そう思いながら、カフェを出ると、外は冷たい北風が吹いていた。
婦人服売り場には、気に入ったものが見つからず、私は、東側の専門店街に行ってみることにした。
昨日の洋菓子店と同様、どの店も、もうすぐ訪れるバレンタインデーの雰囲気に包まれていた。
おそろいのジーンズと色違いのセーターを着たカップルが、ポスターの中で、いかにも幸せそうに笑っていた。
店内には色とりどりのセーターがディスプレイされていて、私は、薄黄色のセーターを買うことに決めた。
デザイン的には胸にワンポイントがあるだけの地味なものであったが、黄色いバラ・・・レモンシャーベットを連想させてとても気に入った。
胸のマークは、このお店のブランドを表しているものなのだろうか。隣の紳士コーナーにも、同じマークのセーターが並んでいた。
彼は、どんな色が好きなんだろう・・・。
雪まじりの冷たい風が吹いている福島空港の様子が浮かんだ。
病室の前まで来ると、賑やかな笑い声が聞こえてきた。
ノックをして中に入ると、あの中年のナースと、若いナースが、笑顔で彼のベッドの脇に立っていた。
私の姿を見た中年のナースが「お待ちかねの人がやっと来たわね」と、彼の肩をたたいた。
中年のナースは、「今日のお土産はなに?」と、私が右手に下げていた紙袋を見て言った。
紙袋をとっさに後に隠した私に、「秘密なの?」と言って明るく笑うと、「さあ、仕事!仕事!」と、若いナースを促して出て行った。
急に静かになった病室で、間が持てなくなった私は、「お風呂に入りましたか?」とつまらないことを聞いた。
彼は、「はい」と返事をしただけで、また沈黙が続いてしまった。
話す言葉も見つからず、彼のために買ったセーターを差し出すきっかけも逸してしまった。
私は、窓辺に寄ると、「冷たい風が吹いています」と言った。
彼が、ベッドから降りる気配がした。
彼は私の傍らに立つと、やはり外を眺めながら、「空港周辺は雪が降っているでしょうか?」と聞いた。
「多分・・・」と私は答えただけで、窓ガラスに映った背の高い彼を見ていた。
カフェで見かけた女性のセーターの色が鮮やかだったこと。
街は、バレンタイン一色になっていること。
セーターを2枚買ったこと。
話すことはたくさんあるはずなのに、今は何も言わず、このまま眼下を行きかう人たちを黙って見ていたいと思った。
「今日は、ここに来るのが遅かったけど、何かありましたか?」
彼は、窓辺から離れて、ベッドに腰掛けながら言った。
寝坊しました・・・とも言えず、「買い物をしていました」と私は答えた。
そして、彼のセーターが入った紙袋を差し出した。
彼は一瞬、えっ・・・?と言う表情を見せたが、「開けてもいいですか?」と私に聞いた。
私は、「ええ・・・」と答えながら、彼が紙袋から出した箱を見て、「あっ・・・!」と思わず声をあげてしまった。
「いえ・・・なんでもありません」と言いながら、私は顔が赤くなるのを感じていた。
セーターの入った箱を包んでいた包装紙は、いかにもバレンタインのプレゼント、といった感じの派手な模様のものだった。
おまけに、「Love you。。。」なんて文字がハート型のシールの中で光っていた。
あの時・・・会計の際、レジの女性は、私にプレゼントですか?と聞いた。
確かに私は「はい」と答えたが・・・。
手渡された紙袋の中身がこんなことになっているなんて・・・。
彼は、ワンポイントがついただけのシンプルな紺色のセーターを手に取って、「ありがとう。気に入りました」と言った。
気に入ってもらえたんだ・・・という安堵感よりも私の頭の中には、さっきの「Love you。。」の文字がひたすら揺れていた。
彼が妙な誤解をしたらどうしよう。
「福島空港の辺りは、寒いと思って・・・」
言い訳が口を突いて出た。
「奥さんには、私からもらったこと・・・内緒にして下さい」
言った直後にものすごく後悔した。
そういう台詞こそが、もっとも誤解を招く台詞なのだと気がついたからだ。
「朝月夜」(アサヅクヨ)⑥・・・こちらは戯言創作の部屋。
店に入って、ひとりで食事をする気にもなれず、途中のコンビニでお弁当を買って、ホテルに向かった。
チェックインを済ませて、部屋に入ると私はコートを脱いで、浴室のドアを開けた。
洗面台の鏡に映った自分を見て、なぜ私は今ここにいるんだろう・・・と、ふと思った。
彼には、「乗りかかった船」などという言い方をしたが、あの時、Oさんに「お世話はできません」と言って帰ってもよかったのだ。
次の仕事が決まっていない、というのも引き受けてしまった原因だった。
私の仕事は、「派遣社員」のようなものだから、仕事があれば紹介してくれる、なければ待機という、実に安定しない職業だった。
実家の父は、「いつでも帰って来い」と言ってくれていた。
口には出さないが、実家の近くで所帯を持って暮らしてほしいと父は思っていたのだった。
熱いお湯を全身に浴びながら、いずれにしてもあと2日。
明後日の朝、彼を福島空港まで送ったら、それですべて終り。
もう二度と会うこともないだろう、と思った。
浴室を出て、着替えを取り出そうとバックを開けた。
そこには、無造作に詰め込まれた私の衣類があった。
Oさんは、私にバッグを渡す時、「ユキさんの荷物は、女性スタッフに任せましたので・・・」と、言った。
自分は触れていません、と気遣いをしたつもりだっただろうが、押し込まれた状態のシャツ類は皺だらけで、とても着られそうになかった。
今日、彼の下着を買ったスーパーに明日もう一度行って、セーターとシャツを買おうと決めた。
湯上りの缶ビールは心地よかったけれど、冷めたお弁当は半分も食べると嫌になってしまった。
テレビのニュース番組を観ながら、持ち帰ったレモンパイを食べて、残りのビールを飲み、つい、うとうとと眠ってしまった。
携帯の着信音に気付いた時には、時刻は9時を過ぎていた。
「ユキ・・・」
私はその声を聞いて、一瞬息が止まりそうなほど驚いた。
私を「ユキ」と呼ぶのは、父と、亡くなった祖父と・・・あの人・・・K・・・しかいない。
声の主は、父ではなかった。
私が黙っていると、今度は「ユキさん・・・?」と、言った。
反応がない私に相手も戸惑っている様子だった。
次に韓国語が聞こえてくるまで、私は電話の相手が彼であると気付かなかった。
「今日もちゃんとお礼が言えなくて。アリガトウ・・・ゴザイマシタ」
「インスssi・・・。わざわざそれを言うために?」と、私が聞くと、「ええ・・・おやすみなさい」と言って、電話は切れた。
仕事中も病院に入ってからも、彼の口から一度も日本語を聞いたことはない。
「アリガトウゴザイマシタ」と言う日本語を彼は、知っていたんだろうか?
お礼を言いたかったという彼の心遣いがうれしかった。
食べ残したお弁当とビールの空き缶を片付けて、歯磨きを済ませ、ベッドに入った。
しかし、さっきの声のことを考えると、眠れなくなってしまった。
骨格が似ていると声も似ている・・・ということを誰かに聞いたような気もするが定かではなかった。
それに、彼とKは似ている体型ではなかった。
彼は、筋肉質のがっしりとした体つきをしているが、Kはけしてそうではなかった。
そう思った時、今日、病院の庭でタバコを吸っていた彼の横顔が誰かに似ていると感じた事を思い出した。
彼・・・インスssiの横顔は、かつて愛したKに似ているのだった。
Kに初めて出会ったのは、大学に入学して間もない日のことだった。
キャンパス内の掲示板を見ていた私に「写真、興味ないですか?」と、声をかけてきたのがKだった。
「自然はとても素晴らしいです!人間がちっぽけに見えますよ」
ありきたりな言葉と、強引さに負けて、私はKの思惑通りに写真サークルに入会し、Kと共に大学で3年間を過した。
3年の歳月はお互いを知るのに充分な時間であり、ひとつ年上のKは、私より早く社会に出て、夢の通りにカメラマンになった。
私は通訳と言う夢を抱き、道は違ってもそれぞれの生き方を尊重し、深く愛し合っていた。
写真と苺ショートケーキと・・・私をとても愛していたK。
アラスカへオーロラの写真を撮りに行く時も、いつもと変わらず、見送りに行った私を空港ロビーで抱きしめた。
「新婚旅行の下見のつもりで行ってくるよ。ホテルもちゃんとチェックして、ユキの気に入るような観光コース考えて来るからな」
新婚旅行がアラスカなんて・・・と、不満気に言う私を見て、「ユキにも絶対、オーロラを見せたいんだ」そう言って、「早く帰って来てね」の私の言葉に大きく頷いていたのに・・・。
人間って、悲しみがあまりにも深いと、涙も出ないのだということをあの時、初めて知った。
飛行機のプロペラが回っていることにも気付かないほど、オーロラの美しさは、Kの心を虜にしたのだということを、後に届けられた一枚の写真が教えてくれた。
「朝月夜」(アサヅクヨ)⑤・・・こちらは戯言創作の部屋。
ホテルの並びの洋菓子店の前で、私は足を止めた。
店の硝子には『大好きなあの人に・・・』と言う、お決まりの言葉が貼られ、店内には色とりどりのチョコレートが飾られていた。
もうすぐ「バレンタインデー」なのね・・・、と私は思った。
あの出来事があって以来、「バレンタインデー」も大好きだったケーキも私とは縁遠いものになってしまった。
それでも、病院の味気ない食事を文句も言わず食べている彼のことを思って、店の中へと入った。
硝子のショーケースの中に並べられたケーキは、どれもシンプルなデザインだったが、それだけに味の良さと高級感が漂っていた。
「お気に召したものがありましたら、おっしゃってください」
苺ののったショートケーキを見つめて、何も言わないでいる私に店員が声をかけた。
「このお店のお薦めののケーキを5つ・・・。」と、私は答えた。
病室の前まで来ると、あの中年ナースの笑い声が聞こえてきた。
「あら、お帰り。買い物に行っていたの?ケーキ・・・?いいわね、ケーキのおみやげだって」
と、彼女は私が手にしている箱と彼の顔を交互に見ながら言った。
「いかがですか、ご一緒に?」と、私が誘うと「ケーキは大好きなんだけど、勤務中だし・・・密かにダイエットしてるし・・・」と言って、笑った。
彼女のような人は、ナースと言う職業がきっと天職なんだろうと私は思った。
「病室での飲食は禁止だから、1階の食堂に行くといいわ。ついでに庭でも散歩してきたら?1日中、病室にいたら飽きるでしょう。外に出るときは、パジャマの上に必ず何かを着て出ること。せっかく良くなったんだから・・・って、あなたから言ってね」
そう言って、病室から出て行った。
彼女が言ったとおりのことを私は彼に伝えると、彼にジャンパーを着るように言い、1階の食堂へと向かった。
一杯80円の紙コップ入りのコーヒーを彼は「おいしい」と言って飲んだ。
「お好きなものが解らなくて、適当に買いました」
私はそう言いながら、彼の目の前で洋菓子店の箱を広げた。
お好きなもの・・・どころか、彼が甘いものを好きか・・・苦手か、それすらも知らないのだった。
洋菓子店の店員が入れてくれた紙ナフキンを彼の前に置き、「どれにしますか」と尋ねると、彼は「これ・・」と言って、苺ショートケーキを指差した。
私の口から「えッ・・・」と言う声が漏れたので、彼は、ショートケーキは、私自身が食べたくて買ったもの・・・と、勘違いしたようだ。
「それじゃ・・・こっち」と言って、今度はマンゴー風味のレアチーズケーキを指差した。
「そうじゃなくて・・・いいんです、どうぞ」と言って、私は、彼のナフキンの上に苺ショートケーキをのせた。
病院に持って行くからと言って、添えてもらったプラスチックのフォークを差し出すと、彼は「ありがとう」と言った。
私が、どれにしようかと箱の中のケーキを眺めているうちに、彼の目の前に置いたはずのショートケーキはもうなくなっていた。
彼にマンゴーチーズケーキをすすめ、私は、チョコレートケーキを選んだ。
「甘いものは好きですか?」と私が聞くと、「ええ・・・自分では買いに行きませんが」と、彼は答えた。
彼の紙コップが空になっていることに気付いて、私はもう一度、自動販売機のコーヒーを買って来た。
すると、彼は「すみません」と言いながら、3分の1程に減った私の紙コップに、自分のコーヒーを注いでくれた。
韓国ではこんなことは普通なのだろうか・・・それともこんなことを変に意識する私が普通じゃないんだろうか・・・と、ふと思った。
「日が暮れる前に外に出てみますか?」と私が言うと、彼は一瞬迷いながら、「タバコが吸いたい・・・」と言った。
そういえば、彼はいつも照明機材の陰で、タバコを吸っていた・・・ということを思い出した。
「今まで、我慢してたの?」と聞くと、「ええ」と言って、笑った。
俯きがちの笑顔だったけれど、入院して以来、初めて見た彼の笑顔だった。
まだ、日差しが残っているとは言っても、外は寒かった。
中庭をひと回りしても、冬枯れの木立があるだけで、眺める花もなかった。
春になったら、咲き誇るであろう桜の樹も今は、まだ眠っていた。
ベンチに座って、タバコに火をつけると彼はおいしそうに大きく息を吐き出した。
その横顔が遠い日に見た誰かに似ていると思ったけれど、その時は思い出すことができなかった。
「雪は降りませんか?」
吐き出す煙の行方を追いながら、彼が呟いた。
「そうね・・・雪が降ることはめずらしいかもしれません」
私は、病院のある栃木県・宇都宮市という場所の大体の位置と、今は、交通の便もよくなり、通勤圏となっていることなどを話した。
「福島空港の辺りは、ずいぶん雪が降っていると思います。明後日、帰国する時は、日本の雪が見られると思います。帰国便の予約、しておきましょうか?」
と、私が言うと、彼は、自分で電話しますと言った。
福島空港のカウンター業務の人なら、当然、韓国語も理解してくれるだろうと、予約の件は彼に任せることにし、彼が二本目のタバコを吸い終えたところで、病室に戻ることにした。
病室に向かうエレベータの中で、今夜から、ホテルに泊まることにしたと彼に告げた。
その方がお互い気兼ねがなくていいでしょうとは、さすがに言えず、私は「お風呂に入って着替えをしたいんです」と言った。
彼は、その方がいいですねと、同意するわけでもなく、反対に落胆した風でもなく、エレベーターの上昇程度を表示する文字盤を見上げながら、「そうですか」とだけ言った。
病室に戻って、昼間買った下着の入った紙袋を差し出し、「明日の朝、入浴したらこれに着替えてください」と私は言い、サイズもデザインも合うかどうか解らないと付け足した。
彼は、LサイズならOKだし、そういうもののデザインにはこだわりませんと言った。
「ユキさんの選んでくれたものなら、何でもいいです。ありがとう」と言ってくれた彼の言葉に、私は恐縮すると共に、彼もこんな風に気のきいたことが言える人なんだ・・・と、ちょっとおかしかった。
私は、残ったふたつのケーキのうち、シフォンケーキをナフキンに包み、「夜、おなかが空いたらこっそり食べてね」と言って、ベッドサイドの「物入れ」の上に置き、レモンパイは持ち帰ることにした。
困ったことがあったら、すぐに携帯に電話を下さいと、携帯番号をメモして、「ゆっくり休んでくださいね」のひと言を残して、私は、病室を出た。
「朝月夜」(アサヅクヨ)④・・・こちらは戯言創作の部屋。
「キムさん・・・キムさん・・・」
キムさん~!と、肩を叩かれて振り向いた。
「考え事でもしてましたぁ~?何度も呼んだんですよ~」
O氏と別れて、ナースステーションの前を通りがかった時だった。
肩を叩いたのは、若いナースだった。
そうだった・・・彼は、キム・インスと言う名前だったんだ。
その彼に付き添っているから、彼女は、私を「キムさん」と呼んだのだ。
「ちょっと、いいですか?」と、若いナースは私をナースステーションのカウンターへと導いた。
「退院は明後日でいいですね?先生が、あと、二晩、病院のベッドでゆっくりしたら、体力も回復するだろうって。入院費の清算は・・・」
ちょっと待ってください・・・と、私はナースの言葉を制した。
私は、単なる付添い人であって、彼の身内ではない。
彼の体力だの、入院費だのは、私の踏み込む範疇ではないと思った。
事の成り行きをこのナースに話しても意味がないように思えて、「彼と直接話してください」とだけ私は言った。
病室に戻ると、窓辺に立って外を見ていた彼が振り返って、「朝ごはん、おいしかったですか?」と聞いた。
「ええ・・」と私は答えながら、彼の手の中に携帯電話があることに気が付いた。
きっと、奥さんに連絡したんだわ・・・私は当然のことだと思った。
「ユキさん・・・」と。彼が初めて私の名前を呼んだ。
仕事中も、「通訳さん」とか「あの・・・」とか、名前を呼ばれた記憶はなかった。
知っていることが意外で、私は、つい、どうして私の名前を知っているのかと、不躾な質問をしてしまった。
「Oさんに、あなたのことを何と呼んだらいいのか、尋ねたら、ユキさん・・・と、教えてくれました」
初対面の時の自己紹介で名乗った名前を、彼が憶えていてくれたのではなかったことに私は、少しがっかりした。
「ユキさんは、ここにいて大丈夫なんですか?」
彼は、私が家に帰らず、ここにいることをやはり気にしていたのだ。
「私は、ひとり暮らしだから、待っている人はいないの。それより、早く元気になって、帰らないと・・・。あなたには待ってる人がいるでしょう?私のことは気にしなくていいから。こういうのを日本では《乗りかかった船》と言うのよ」
私は、冗談めかしてそう言った。
「乗りかかった船」と言う日本での古くからの言い回しが、通じたかどうか解らないが、彼は、「すみません・・・」と、本当に申し訳なさそうに呟いた。
私より年長の彼が、その時は年下のように思えた。
朝の回診の時に、先程、ナースステーションで私に尋ねたことと同じことを担当のナースが彼に聞いた。
私は、それを通訳して彼に伝えた。
病院では、予約をすればシャワー室を利用することができた。
午前中は、自力で入浴可能な患者。
午後は、介護を必要とする患者、と決まっていた。
今朝の回診の時に、どうしますか?とナースに尋ねられて、彼は、明日の10時を希望した。
終了したコンサートのことや、他愛もない話しをしているうちに時刻は正午になろうとしていた。
旅先での入院と言うこともあって、彼は、病院から、貸与されたパジャマを着ていた。
しかし、下着類はそういうわけにも行かない。
O氏が持って来てくれたバッグの中に数枚の下着は入っているだろう。
だが、せっかくO氏から自由に使ってくださいと預かったものがあるのだから、彼に新しい下着を買ってこようと私は思い立った。
そのことを彼に話し、ついでに昼食を済ませてくると言って、私は病室を出た。
外はすっきりと晴れていた。
駅前の大型スーパーの下着売り場に着いて初めて、私は彼の下着のサイズが解らないことに気が付いた。
サイズだけではなく、紳士用下着も様々なものがあり、彼がどのタイプの下着を愛用しているのか、それも解らなかった。
売り場の店員に尋ねると、「Lサイズ」が、無難であると言うことと、彼の年齢から言って、最近の若者が好むタイプのものを薦めてくれた。
店員は最初、「プレゼントですか?」と私に聞いたが、プレゼントの品として男性用の下着を選ぶ女性がいるのだろうか?
父の下着さえ買ったことのない私には、想像もつかないことだった。
スーパーの最上階の喫茶店で昼食を済ませると、先程、駅前を通りかかった時に目に留まったホテルに向かった。
玄関を入ると、黒いスーツを着た従業員がにこやかに迎えてくれた。
私は、正面の受付カウンターで、シングルルーム、2泊の予約をした。
ふた晩くらい、病室のソファで寝ることは構わなかったが、付きっきりでいるほど彼は重病ではない。
無造作に詰め込まれたバッグの中を片付けたかったし、ゆっくりとシャワーの湯を浴びて眠りたいと思った。
それにも増して、彼が気兼ねするだろうと言うことが何より気になった。
何をしても「すみません・・・」と、申し訳なさそうに言う、彼の顔が浮かんだからだった。
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