創作の部屋~朝月夜~<39話>
にぎやかな通りから脇道に逸れた所で、僕はタクシーを降りた。
10段にも満たない短い階段を降りて行く。
ワインレッドの扉に、「再会」と書かれた安っぽい木製のネームプレートが掛けてあった。
ラテン系の音楽が低く流れる店内は、タバコの煙と客の笑い声に満ちていた。
場違いな所へ来てしまったか・・・一瞬、そう思ったが、店を変えるのも面倒な気がした。
客の多くはカップルだった。
視界の端に、女の肩を抱く中年男の姿が入った。
ますます、場違いな所に来てしまったとの思いが募った。
入り口近くのカウンター席に着いたとたん、ショートカットの若い女がメニューを持って現れた。
目の前に広げられたメニューには、食欲をそそるようなものは何ひとつなかった。
「バーボン・・・ボトルで」
酒だけ頼んで、早々にメニューを閉じた。
「他には何か・・・?」
ショートカットの女が言った。
僕は黙って首を振った。
すぐにアイスペールに入った山盛りの氷と、バーボンのボトルが運ばれて来た。
カウンター越しにウェイターが磨きぬかれたグラスを差し出した。
「私も一杯いただきま~す」
ショートカットの女は、ウェイターに自分の分のグラスを催促すると、手際よくバーボンを注いだ。
女が飲んだ分は、そのまま店の売り上げに繋がるのだろう。
そんなことはどうでもよかったが、付き合わされるのはごめんだった。
「乾杯~!」
満面の笑みでグラスを寄せてきた女に、「ひとりにしてくれないか」と、僕は言った。
女は拍子抜けしたような表情で、別のテーブルに移って行った。
ユキから突然別れを突きつけられたことに、僕は苛立っていた。
自分勝手な言い分とも言えるような言葉を並べ立てたユキに・・・。
腹立たしい思いを抱えたまま、ユキの言葉を聞いているだけだった自分に・・・。
そして何より、子供を失って、心身ともに傷付いているであろうユキに、いたわりの言葉ひとつかけてやれなかった自分の心の狭さに・・・。
ボトルの酒が半分ほどになっても、頭は冴え渡っていた。
酔いたくても酔えない状態に気付いて、これ以上ここにいるのは、時間の無駄のような気がしてきた。
酔っているつもりはまったくなかったのに、イスから立ち上がる時、足元が少しふらついた。
いつの間にか近くにいたショートカットの女が、素早く駆け寄り、僕を支えた。
女は、店のドアを開けながら、「タクシーを拾うところまで一緒に行こうか?」と、言った。
女の申し出を断わって、短い階段を上った。
あと1段という所で、再び足がもつれた。
「だから、送るって言ったのに」
「他人の好意は、素直に受けるものよ・・・」と言いながら、女は腕を絡めて来た。
待つほどのこともなくタクシーが近づいて来て、止まった。
後部座席に沈む僕の上着のポケットに、名刺を差し込むと、女はにこやかに「またね」と言って、手を振った。
携帯電話の着信音で目が覚めた。
ユキか・・・?
「昨日はごめんなさい」と、言いたくて、ユキが電話をして来たに違いない。
僕は、ベッドから飛び起きた。
ソファの上に脱ぎ捨てた上着のポケットから、携帯電話を抜き取った。
「キム監督・・・?釜山の現場がトラブってる。朝から悪いけど・・・」
「運命」と言う言葉が、頭をかすめた。
昨夜、タクシーの中で、すぐにでも日本に行こうと決めたばかりだった。
ユキと僕の間に立ちはだかるもの。
それらは全て第3者の手によって、故意に作り上げられたものではなく、偶然がもたらしたものなのだ。
解っているからこそ、「運命」を感じずにはいられなかった。
添うことができない運命だとしたら、それに逆らって果たしてユキを幸せにできるんだろうか。
ふたりにとって、今は「運命」を静観するべき時期なのだろうか。
いや、「運命」などというものは自ら切り開くべきものでなければならないはずだ。
様々な思いが交錯する中、釜山に向けて僕は車を走らせた。
翌々日、釜山の仕事を片付けたことを社長に報告し、3日間の休暇の許可をもらい、成田行きの飛行機に飛び乗った。
釜山に向かう車中からも、釜山の現場に着いてからも。
昨日も、今日も、僕は、ユキに電話をかけ続けた。
しかし、虚しい発信音が響くだけで、ユキの声を聞くことはできなかった。
電話で話していたって埒が明かない気がした。
一刻も早くユキに会い、やさしく抱きしめて「何も心配するな」と言ってやりたかった。
ユキを失いたくないのなら、そうするべきだと僕は思った。
ユキの住む部屋を訪れるのは3度目、迷うことなくたどり着けた。
ユキはきっと驚いた顔をして僕を迎えるだろう。
最初のひと言は何と言おうか・・・?
はやる気持ちを抑えつつ僕は、チャイムを鳴らした。
1回・・・2回・・・留守なのだろうか・・・。
3回目は拳でノックしてみた。
4回目は少し強く・・・だが、ユキの出てくる気配はなかった。
隣の住人に尋ねてみたくても、日本語が解らない。
僕は1階に降りるために、再びエレベーターに乗った。
おそらく、エレベーター脇の小さな部屋が、管理人室だろうと思ったからだ。
小さなガラス戸越しに中を覗いた。
管理人らしき初老の男が、新聞を広げている姿が見えた。
ガラス戸を叩き、韓国語で挨拶をした。
僕が日本人でないと解ると、管理人はあからさまに不信感を募らせた視線を僕に向けた。
僕は手帳に、ユキの部屋番号と名前を書いて管理人に差し出した。
一応は目を通したが、管理人は「ダメだ」と言いたげに大げさな身振りで顔の前で手を振った。
「ユキニアイニキマシタ。オネガイシマス」
思いつく日本語はそれくらいだった。
管理人がひと言ふた言何かを言ったが、僕にはまったく理解できなかった。
ガラス戸を閉めようとする管理人を制して、僕は頭を下げながら、同じ言葉を繰り返した。
管理人はため息をつくと、引き出しから鍵の束を取り出し、僕に先立ってエレベーターに乗った。
ユキの部屋の前で、僕を振り返り、無言で鍵穴に鍵を差し込んだ。
静まり返った室内には、ユキの姿どころか、家具の一切が姿を消していた。
どこへ行った・・・?
思いつくのは、父の元・・・実家しかなかった。
以前、ユキから手渡されたユキの名刺を取り出してみたが、実家の住所が書いてあるはずもなかった。
とりあえず、そこに記されているユキの勤務先に電話をかけてみた。
電話はすぐに繋がったが、理解できないテープの声が聞こえて来るだけだった。
携帯していたポケット版の地図を頼りに、ユキの会社が入っているビルを探し当てた。
だが、そこでも僕はユキには会えなかった。
雑居ビルのワンフロアは改装中で、内装工事を請け負った作業員が忙しそうに動き回っていた。
詳しいことを聞けるだけの言葉を持たない僕は、作業員のひとりにユキの名刺を差し出し、会社名を指差した。
滴る汗を拭いながら、作業員は「CLOSE!CLOSE!」と言いながら、指を交差させ、×印を作って見せた。
これで、ユキとの連絡方法は見つからなくなった。
「別れる」と言うユキの決心は本物だったのだと、思い知らされた気がした。
創作の部屋~朝月夜~<38話>
「だめになった・・・?だめになったって、どういうことだ?」
「だから・・・今、言ったとおり・・・」
ユキの声は今にも消え入りそうだった。
「体に気をつけろって、何度も言ったはずなのに・・・」
「ごめんなさい・・・」
「謝って済むこことか?原因は何なんだ?」
「解りません・・・」
「解りません?お父さんの看病で無理をしたのか?それとも仕事・・・」
僕の言葉を遮るように、ユキは再び「解りません」と、言った。
その日、僕はL.A.から、帰国したばかりだった。
着替えよりもまず、ユキの声が聞きたかった。
約束の日に日本に行かれなかったこと、そして、L.A.滞在中、一度も電話できなかったことを詫びようと思っていた。
新人スタッフの些細なミスで、照明装置が故障してしまった。
現地での修理は不可能だった。
急遽、ソウルから照明装置を移送することになり、僕は同行を命じられた。
ソウルで行なわれたMのコンサートの照明技術が評価され、オファーを受けたコンサートの仕事だった。
僕は、ソウルでの仕事が入っていたので、他のスタッフが責任者としてL.A.に行っていた。
現地のエージェントは、無責任だと怒りを僕にぶつけた。
結局、コンサート終了まで、僕がL.A.に滞在すると言う約束で、その場は収まった。
コンサートの全日程は5日間。
終了後は、機材の搬出、移送、残務整理。
滞在期間は20日余りを要した。
その20日の間に僕たちの子供がだめになった・・・。
にわかに信じ難い事実に、僕は唖然とした。
さらに追い討ちをかけるように、ユキはまたも信じられない言葉を口にした。
「私たち、もう、会わない方がいいと思います」
子供を失って、ユキは動転しているのだと僕は思った。
「何か・・・違うと思うの」
「違うって、何が?」
答える口調が、つい荒くなってしまう。
「一緒になるには、障害が多すぎて・・・」
「そんなこと、最初から解っていたことじゃないか。ふたりで、ひとつひとつクリアして行けばいい」
「自信がないんです」
「とにかく、電話で話すようなことじゃない。会って話そう。近いうちに、必ず、行くから」
「あの時、来てほしかった・・・」
「子供が、だめになったのは僕のせいだって言うのか?僕の無責任さが災いしたって・・・そう思っているのか?」
「そうだと言ったら、私のことは忘れてくれますか?」
「ユキ・・・本気なのか?」
「年老いた父をひとり残して、私は韓国へは行けません。あなたは、全てを捨てて、私の元に来られますか?」
「ユキが望むなら、そうしてもいい」
「きっと、後悔するわ」
「後悔なんかしない」
「私が後悔する・・・あなたから、仕事を取り上げたら、一生そのことを悔やみながら生きていくことになるわ」
確かにユキの言うとおり、僕から、仕事を取ったら、何が残るだろう。
他に取得もないし、やりたいこともない。
しかし、ユキを失うくらいなら、生きがいともいえる仕事さえ捨てても構わないと僕は思った。
「ユキ・・・冷静になって考えてくれ。焦って結論を出す必要はないだろう?」
「十分、考えた末のことです」
「僕たちが愛し合った数ヶ月を、ユキはたった数日で片付けるのか?」
「この20日間は、私にとっては長いものでした」
「別れられると思っているのか?」
「私はそう決めました」
「勝手なことを言うな!」
大声を出すまいと思っていたが、感情を抑えることができなかった。
「人にはそれぞれ必要とされる居場所があるはずです。そこで、幸せになるための努力をすべきだと思います」
「ユキの居場所は僕の隣じゃないのか?」
「必要な時・・・側にいてほしい時、あなたはいないわ」
それは仕方ないことじゃないか・・・と、言おうとしたが、結局は、仕事を理由にした男の身勝手な言い訳のように思えて、僕は、返す言葉を失った。
「父の側で、畑を守って、一緒に暮らせる人と・・・」
「だったら・・・なぜ、僕を愛した?」
「だから・・・違うって、気付いて・・・」
「それが別れる理由だっていうのか?もう、いい・・・話にならない。少し時間を置いて、また、電話する」
それで、僕が納得できると思っているのか。
ふざけるな、と言いたい気持ちだった。
「電話もこれが最後です。お体に気をつけて、どうぞお元気で」
形式的な言葉を残して、ユキは僕たちの関係に幕を下ろした。
僕は、上着を掴んで外に出た。
タクシーに乗り込み、後部座席で目を閉じた。
「どこまで?」
無言の僕に、運転手がもう一度聞いた。
「どこでもいい・・・酒の飲める場所に」
目を閉じたまま僕は答えた。
「ユキちゃん、大丈夫?」
振り向くと、後ろにコウジが立っていた。
「聞いてたの?」
「ごめん・・・。聞くつもりはなかったんだけど・・・。ビールでも飲もうかなと思って下りて来たら、台所に明かりがついていたから・・」
私は冷蔵庫を開けるとコウジに缶ビールを差し出した。
「ユキちゃんも飲む?・・・あっ、酒はダメか・・・」
「私はこれで・・・」
私は、インスから電話がある前にコップに注いだぬるくなった麦茶をひと口飲んだ。
「嘘を言うって、つらいわね・・・」
「好きなら、別れることないじゃないか」
「ちょっと前までは、お父さんには申し訳ないけど、韓国へ行って、彼と一緒に暮らそうかな・・・と、思っていたの」
「そうすればいいのに」
「怪我をしたお父さんを見たら、気持ちが揺れちゃった・・・」
「ここで一緒に暮らすことはできない?」
「ここに彼の居場所はないわ。今の仕事を辞めて、ここで輝きを失っていくあの人を見るのは、別れるよりもつらいもの・・・」
「おじさんには、言った?」
「まだ、言ってない。退院したらきちんと話すわ」
父はきっと、自分のことは構うなと・・・。
韓国へ行けと言ってくれるだろう。
でも、年老いた父を家族でもないコウジに任せて行くことはできない。
インスと私とは、生きる道が違うのだと、その時、私は思っていた。
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