創作の部屋~朝月夜~<36話>
「おはよう・・・。起きてた?」
携帯から聞こえてきた声は、ずっと待っていた声だった。
「昨日、何回も電話くれたんだね」
「ええ・・・」
「気付かなくて、ごめん」
「仕事・・・忙しいの?」
私は、事実を確かめるのが怖くてそう言った。
「いや・・・昨日は、休みだった」
「そう・・・」
それで、1日奥さんの側にいたのね・・・心で、呟いた。
「写真を撮りに行ってた。海に・・・」
「写真・・・?」
「うん、夢中で撮り続けた。気付いたら、夕方になっていたよ」
「夢中になれるものがあっていいわね」
「え・・・?」
「携帯の音も聞こえないほど、夢中になっていた・・・って、ことでしょ?」
インスの言葉が信じられなかったから、棘のある言葉が、口を突いて出た。
「波の音に消されて、着信音に気付かなかった・・・ごめん。それで・・・何かあった?」
「心配してくれたの?」
「だから、朝になるのを待って電話した」
「安心して、ただ・・・あなたの声が聞きたかっただけだから。本当は夕べのうちに電話してほしかったわ・・・」
「帰宅したのが遅くて・・・」
「アメリカから電話をくれた時は深夜だったわ」
あの時、インスは時差も忘れるほどに私の声が聞きたかったと言った。
「女にとって、好きな人からの電話は・・・たとえ、それで睡眠を妨げられようとうれしいものなの。明日にしようと思う気持ち・・・それは、私に対する気遣いではなく、私に対する意識が薄れたからだわ。今・・・あなたの心の多くを占めているものは何?それが知りたいの」
私は日本語で一方的に言った。
「ユキ・・・どうしたの?日本語で言われても僕には理解できない」
そんなことは解っている。
それでも、心に鬱積したことを言わずにはいられなかった。
「どうしたんだ?ユキらしくないよ・・・」
今はインスの一言一言が気に障る。
「らしくないって・・・?ただ黙って待ってるだけが私らしい?」
「ユキ・・・本当に変だよ。何かあったのなら言って・・・」
何もかも言ってしまえたら、どんなに楽だろうと思った。
なぜ、別れた奥さんの看病をあなたがしなければいけないの?
そして、そのことをどうして私に隠しているの?
でも・・・言えない・・・言わない。
インスが自ら先に、言うべきことだと思うから。
「ごめんなさい・・・これから出かける予定なの。切るわね・・・」
「ユキ・・・大丈夫なんだな?変わりはないよね?」
会話を終えようとする私を、インスの心配そうな声が追いかけて来た。
大丈夫・・・心配しないで・・・。
そう言ったら、あなたは安心して、今日も別れた奥さんのところに行ける?
それなら、言ってあげる。
「心配しないで。私は大丈夫です」
インスの返事を待たず、私は携帯を閉じた。
自分の発した言葉に、私自身が傷付いていた。
声が聞けてうれしい・・・。
会いたくてたまらないの・・・。
心ではそう叫んでいても、頭の片隅に割り切れない思いが渦巻いて、素直になれない自分が悲しかった。
週末まで休むと言っていた私が、突然出社したので、社長は驚いていた。
「大丈夫なのか?」
その場に居合わせた全員の視線が私に集中した。
好奇心に満ちたその視線を浴びて、私の妊娠はすでに知れ渡っていることなのだと解った。
立ち上がって私を見ていたAの手を取って、外に出た。
「出歩いていいの?」
「なぜ、嘘を言ったの?明洞のオフィスで会ったなんて。明洞に彼のオフィスはないわ!」
「ミョ・・・明洞・・・?私、そんなこと言ったっけ?」
「誤魔化さないで。病院で会ったんでしょ!」
「ユ・・・ユキ・・・落ち着いて」
掴み掛りそうな勢いの私の声を聞いて、社員のひとりがドアを開けた。
「下で話そうか・・・」
Aは、私を階下のカフェに連れて行った。
「そんなに興奮すると、体に良くないよ」
Aは、私の横に座ると、やさしく肩を抱いてそう言った。
「彼に聞いたんだ・・・?」
私は黙って首を振った。
「ならどうして・・・?」
インスの会社の人から、知らされたと私は言った。
「ユキを騙すつもりはなかったのよ」
「でも、結果的にはそうなったわ!あの人から、口止めされた?ユキには言うなって・・・そう、言われた?」
「そうよ・・・そう言われた」
少しの間を置いて、Aは言った。
「私も、ユキは知る必要はないと判断したの」
「知る必要がない・・・?私にとっては重大なことだわ」
「ユキ・・・落ち着いて聞いてね」
Aは、ホテル火災のこと、それによって怪我をしたインスの別れた妻のことを簡単に説明してくれた。
「ずっと、続くことじゃないわ。一時のことじゃない?インスさんは、ユキのことを一番大事に思ってるよ」
「だったら、言ってくれたらいいのに。第三者の口から聞かされるより、あの人から直接聞きたかった・・・」
「隠すことも時には優しさだって。ユキに余計な心配をかけたくないって言う、インスさんなりの気遣いなのよ」
「このまま知らないふりをしてろって言うの?」
「解ってるんでしょ?インスさんの性格。放って置けないのよ。
たとえ、元妻でもね・・・」
解ってる・・・。
解っているからこそ不安なのだった。
別れた妻だからと、切り捨てることができないインス。
放り出して、楽な道を選択できないインス。
自分のできる範囲で精一杯のことをしているはずのインス。
そんなインスが、私の元に戻る日はいつになるんだろう。
別れた妻と私との狭間で、苦悩するインスの顔が浮かんで、私をつらくさせた。
「昨日も、1日病院ですか?」
出社した僕に、スタッフのひとりが言った。
「いや・・・昨日は、写真を撮りながら、1日海辺で過ごしてた」
「そうだったんですか?勝手に病院かと思い込んで・・・」
「何かあったのか?」
「電話がありました。キム監督にお世話になったって・・・。日本人の若い女性でした」
「それで・・・?なんて言ったんだ?」
「携帯が繋がらないって、その人が言うものですから・・・。おそらく、病院だろうって・・・」
スタッフの言葉が終わらない内に、僕は、携帯を掴んで外に出た。
ユキは知っていたのだ。
今朝、電話に出たユキの様子がおかしかったのは全てを知っていたからだったのだと・・・僕は、この時初めて気付いた。
創作の部屋~朝月夜~<35話>
「それで・・・?あの人はなんて言ってた?」
「もう、何回同じこと聞くの?だから・・・順調に育っていて、うれしいって喜んでました~」
友人のAは、買ってきたお寿司を口に放り込むと、呆れ顔で言った。
何回も同じことを重ねて聞いてしまうのは、インスの様子を知りたい私の気持ちの表れだった。
インスの口から発せられたどんなに些細な言葉も、聞きたいと思った。
昨日、韓国から帰国したAは、「今日はお疲れ休み」と言いながら、私を訪ねて来てくれた。
つわりで苦しむ私を気遣い、「これなら食べられるかなと思って」と、寿司折りを持って来てくれたのだった。
「あとは・・・?」
これ以上しつこく尋ねられてはたまらないと言った素振りで、Aは、「詳しく知りたかったら、電話しなさいよ」と言った。
「あの人・・・忙しそうにしていた?」
Aは、解らないと言うように黙って、首を傾げた。
「最近、携帯がマナーモードになってることが多くて、繋がらないの」
「ねえ、彼って、無口な人?」
昨夜も携帯が繋がらなかったと、言おうとしたのに、Aはまったく違う話題を持ち出した。
「う・・・ん、どちらかと言うとそうかも・・・」
繋がらない携帯の話しは、そこで保留となった。
「女が、身震いするほど喜ぶようなあま~い言葉なんて、絶対言わないタイプでしょ?」
「どうかな・・・」
「ユキには言ったんだ・・・。あま~いこ・と・ば」
Aは、「きゃあ、ステキ!」と叫んで、意味あり気に笑った。
「私は、どちらかと言うと、常に陽気な男が好き。会話が途切れちゃうような男は、どうしよう~って、思っちゃう」
そう言うとAは、私の顔を覗き込むようにして、「あの眼差しでしょ?」と言った。
「眼鏡の奥のあの眼差し・・・なんて言うか・・・ちょっと少年っぽくって、澄んだ眼差し・・・あれにホレちゃった?」
「うん、うん、きっとそうだわ」と、Aは、自分の言葉にひとりで納得していた。
インスのどこに惹かれたか・・・なんて、具体的に考えたことなどなかった。
気がついたら、好きになっていた。
心の中から追い出せない存在になっていた、としか言い様がなかった。
大切に思っていたい人。
私にとって、インスはそういう人だった。
「ところで、彼とはどこで会ったの?」
「どこでって・・・?」
「仕事場まで行ったのかな・・・って、思って」
私は、Mのコンサート会場で見かけたジャンパー姿のインスを思い出していた。
「オ・・・オフィスよ・・・オフィス」
「明洞の・・・?」
「え・・・っ?ああ・・そうそう、明洞のオフィス」
そう言うと、Aは私の淹れたお茶をひと口飲んで、「帰ろうかな」と言った。
「ゆっくりしていけばいいじゃない」
「なんだか眠いの。夕べも遅かったし。それにこれ以上ユキの質問攻めにあったら、たまらないわ」と、Aは笑った。
「彼と会ったことの報告と、ユキが食欲がないって言ってたから、何かおいしいものを届けようって、来ただけだから」
「帰国したばかりで疲れてるのに・・・ありがとう」
「今度、ゆっくりさせてもらうね」
そう言って、立ち上がったAを私は玄関まで見送った。
「あ・・・言い忘れてた。例の話し、本決まりになったの」
例の話しとは、会社の合併の話しだった。
「今の事務所は撤退することに決まったのよ。希望者は新たな会社での採用を検討するって」
「検討するって・・・何それ?」
「全員の希望は聞き入れられないってことじゃない?まったく勝手よね。ユキは行き先が決まってるから、心配いらないわね」
「私のことより、あなたはどうするの?」
「私・・・?私は・・・辞める。新しい会社にも行かない」
「で・・・どうするの?」
「大丈夫、ちゃんと考えてるから」
「考えてるからって・・・」
「今度会った時にちゃんと話すね」
Aは、「じゃあね」と手を振って、帰って行った。
合併の話しは、以前から社員の間で囁かれていたが、こんなに早く決まるとは意外だった。
Aは、「ユキは行き先が決まっている」と言ったけれど、何ひとつ決まっていないことは、私自身が一番良く解っていた。
インスとの関係。
結婚への道のり。
お互いの仕事のこと、親のこと。
韓国と日本との距離。
何より、おなかの中の子供のこと。
考えてみたら、具体的に決まったことなど、何ひとつない。
Aが帰ってしまった部屋で、一人になると、急に不安が押し寄せて来た。
インスの声が聞きたい・・・。
日中は遠慮している携帯電話のインスの番号を開いた。
やはり繋がらない。
インスの声を聞いたのは何日前だっただろう。
3日前・・・?4日前・・・?
思い出せない・・・。
近いはずの記憶が思い出せないのに、遠くの記憶が甦った。
「携帯が通じない時は、ここに電話して」
会津で別れる時にインスから、手渡された名刺・・・。
私は、今まで見ることもなく、バックの中に入れたままにしていた名刺を取り出した。
明洞じゃない・・・。
電話番号の下に記されている会社の住所は、まったく違う地名だった。
私は、自分が勘違いしていたことに気が付いた。
でも・・・それならばなぜ、Aは、「明洞のオフィス」と言ったのだろう?
私より韓国の地理に詳しいAが、間違えるはずはないのに、と思った。
会社が移転した可能性もある。
そうなると、電話番号も変わってしまっているかもしれないと思いながら、私は名刺の番号に電話をかけた。
「キム監督は、今日はお休みで・・・」
聞こえて来たのは若い男性の声だった。
「お急ぎのご用件でしょうか?よろしかったら、こちらで承りますが・・・」
事務的な応答が続いた。
インスが休暇をとっていると聞いて、私は戸惑ってしまった。
「お急ぎですか?失礼ですが、どちら様でしょうか?」
「キムさん・・・ご夫妻に日本でお世話になった者です」
私はとっさに嘘を言った。
「それなら、携帯の番号をお教えしますので・・・」
仕事関係の用件ではないと解ったからか、男性の口調が柔らかくなった。
「携帯は繋がらないようですが・・・?」
「ああ・・・多分、病院に・・・」
「病院・・・?具合でも悪いんでしょうか?」
私は、急に心配になった。
「いえ、いえ、キム監督は元気です。奥さんが・・・怪我をされて・・・。ほとんど毎日、病院に行っているんです」
受話器を持つ手が震えた。
「だから、携帯も繋がらないんだと思います」
「必要なら、病院の名前を言いますが」
相手の声を遠くに聞きながら、「結構です」と、言うのが、精一杯だった。
心臓の鼓動が大きくなるのを感じながら、冷静にならなければ・・・と、私は、自分に言い聞かせていた。
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