創作の部屋~朝月夜~<45話>
「ひとり暮らしの男の部屋が、そんなにめずらしいのか?」
落ち着かない様子で、うろうろしているマリーに向かって僕は言った。
「どこかに女の影がないかな~と思って」
そう言いながらマリーはまだ、室内を見回していた。
「洗面所に歯ブラシでも見つけた?」
「大人は、そんな幼稚な痕跡は残さないでしょ?」
「確かにそうだな」
「だけどどこかに・・・無意識に自己主張しちゃうものなのよ」
「例えば?」
僕は、ミソチゲを作るための材料を刻みながら聞いた。
「玄関に2つスリッパが並んでたり。テーブルの隅にきちんと置かれたリモコン。香りつきのトイレットぺーパーなんかがあったら、決定的ね」
「検証の結果は?」と、僕は包丁を持つ手を止めることなく、ちょっとふざけて聞いてみた。
「本当にひとりだったんだ・・・」
マリーは、つぶやくような声で、安心したとも、がっかりしたとも取れる言い方をした。
「そんなことより、こっちへ来て手伝ったらどうだ?」
「私、料理苦手だもん」
マリーは、窓辺の観葉植物の葉に触れながら言った。
「結婚する気ないのか?」
「料理の得意な男と結婚する。ねぇ、この鉢植え、生気を失ってるわよ」
僕は、鉢植えの観葉植物が置いてある方に視線を移すと、「そんなはずない」と言った。
「毎日、お水あげてる?」
そう言われると自信がない。
「3日前くらいに・・・」
「それじゃだめよ」
花屋の店員は、手がかからず緑が楽しめますと言っていた。
「話しかけながら、毎日お水をあげるときれいに育つって言うわ。女性と同じね。触れ合いながら、いつも好きだよとか、愛してるよって言うことが大事なのよ。ほったらかしておいたら、枯れちゃうんだから」
ユキのことを言っているわけではないと、解っていながら、胸が痛んだ。
ミソチゲの鍋が、ぐつぐつと音を立て始めた。
僕は、ふたり分の真空パックの白米を電子レンジに放り込んだ。
予想通り、僕の作ったミソチゲは、マリーから大絶賛された。
おかげで、僕は「料理上手な男」との評価を受けたが、それは、僕が作れるのは、ミソチゲだけだと言うことをマリーが知らないからだった。
食べてる間も、マリーのおしゃべりは止まらなかった。
仕事は何かと聞かれて、「照明監督」と答えると、「どんな仕事?」と身を乗り出してきた。
アメリカ人歌手のMに会ったと話してやると、驚嘆の声を上げた。
質問が離婚の原因に及んだ頃、僕はいよいよ潮時と思って、「食事が終わったら、帰れよ。今夜も仕事だろう?」と、言った。
「今夜は休み。じゃなきゃ、ソウルの町をのんびりうろついてないわよ。ここ片付けて飲もう」
「メシを食った上に酒まで飲む気か?」
「いいじゃん、一杯だけ」
そう言うとマリーは、汚れた食器を片付け始めた。
ダイニングテーブルから、ソファに場所を移して、マリーが作ったウィスキーの水割りに口をつけた。
「今度は私が答える番ね。何でも聞いて」
「年はいくつだ?」
「ノーコメント」
「何でも聞いてと言ったろう」
「質問を変えて」
「別にない」
「何か聞いてよ」
ユキと知り合った頃、ユキのことが知りたくてたまらなかった。
好きな色。
好きな季節。
好きな食べ物。
些細なことでも、僕にとってはどれも興味あるものだった。
「何考えてるの?」
「日本人なのか?」
僕は唐突に聞いてみた。
「ハーフ」
「ハーフ?」
「パパが韓国人で、ママが日本人。パパが仕事で日本に行った時、ママと知り合って。恋に落ちたの」
こんな偶然があるのか・・・。
動揺を悟られないように、僕は一気に水割りを飲み干し、マリーが2杯目のウィスキーをグラスに注いだ。
「パパがママを愛しすぎちゃって・・・」言いながら、マリーはクスっと笑った。
「結婚する前に私ができちゃったの。パパはあわてて韓国に帰って、お父さんとお母さん・・・つまり、私のおじいちゃんとおばあちゃんに結婚の許しをもらったのよ」
「それ・・・本当の話しなのか?」
「そうよ、どうして?」
「いや、別に」
一瞬、僕は、マリーがユキと僕の関係を全て知っていて、作り話をしているのではないかと思った。
「私は、韓国で生まれて、小学生まで韓国で育ったの。中学生になった時、パパの仕事の都合で日本に行って。今も、パパとママは日本で暮らしているわ。私だけが、また韓国に戻って来た・・・と、いうわけ」
「なぜ・・・?」
「う~ん、それは・・・話すと長くなりそうだから、今日は、やめておく。暗くならないうちに帰ろうかな」そう言いながら、マリーは立ち上がった。
僕は、思わずマリーの腕を掴んで「まだ、いいじゃないか」と言いそうになった。
「ミソチゲ、おいしかったわ。ごちそうさま」
「送っていくよ」
「ううん、いいの。ひとりで帰る。ここまでの道順を覚えておきたいの。また、来ていい?」
僕は、黙って頷いた。
「一番聞きたいことを忘れてた。忘れられないほど好きだった人とどうして別れたの?」
靴を履きながら、マリーは思い出したように言った。
即答できない僕に、マリーは、「答えたくない?」と聞いた。
「解らない・・・」
それが僕の正直な気持ちだった。
「解らない・・・?そうね。解ってたら、苦しんだりしないわよね」
「今日は、やけに素直だな」
「あなたを好きだと言ったでしょう。嫌われたくないもの」
マリーがドアを開けると、日没前の冬の風が舞い込んで来た。
それは、程よい湿り気と冷気を含んで、僕の頬を心地よく撫ぜた。
マリーの後姿を見送りながら、僕は少しの間、風の香りを楽しんだ。
創作の部屋~朝月夜~<44話>
「あなたが好きなの・・・」
背後から聞こえたマリーの声は、数分前にきっぱりと僕を拒絶した声とは、別人のようだった。
目の前で、固く閉ざされた扉は、マリーの心そのままではなかったのか。
思考が混乱している僕に、マリーは言った。
「初めて会った時から、好きになったんだと思う。うまく説明できないけど」
通りすがりの男が振り返って僕たちを見ていた。
「離してくれないか・・・」
「いや・・・」
「人が見てる」
「構わない」
「僕は、困る」
想像もしていなかった展開を僕は、受け入れられずにいた。
「離してほしかったら、約束して。別れた人のことは忘れるって」
マリーの腕を振り解くくらい、簡単なことだったが、僕はそれをせず、「約束できない」と言った。
「そんなに好きだったの・・・?」
「ああ・・・」と、答えた。
ならば、別れなければよかったじゃない・・・。
僕は、マリーの次の言葉を予測した。
それは、僕の中で数え切れないくらい反芻した言葉だった。
そう問いかけられたら、今度も曖昧に「ああ・・・」と答えるだけだ。
ところが、マリーは「解った」と言うと、あっさり僕を解放した。
「ならば、忘れる努力をしたら?その方が利口じゃない?」
マリーの口調は、元に戻っていた。
僕は、マリーに背を向けたままその言葉を聞いていた。
「相手にその気がないなら、追いかけるだけ無駄だと思うな」
断定したマリーの言い方が気に入らなかった。
振り向いた時、マリーと目が合った。
その視線を避けることなく、マリーは言った。
「離れて行った人への思いは、いずれ冷めるわ。そして、近くにある愛が欲しくなる。私は、あなたが好き。側にいて、いつもあなたを見ていたい。そんな愛が今のあなたには必要だと思うけど?」
どうしてそんな風に決め付けたような言い方が出来るのだろう。
その自信は何なんだ・・・?と、マリーに聞きたかった。
「お前に何が解るんだ?って、顔してる」
そう言いながらマリーは小さく笑った。
「恋愛に回数や年齢は関係ないわ。大事なのは、どれだけ深く愛したかってことよ」
言い返してやれ、どれだけユキを愛していたか、言ってやれ。
僕の中で、誰かが叫んでいた。
「続きは今度会った時ね。反論できるだけの言葉を用意して店に来て。待ってるから」
そう言い残すと、マリーはまたハイヒールの靴音を響かせて、階段を上がって行った。
僕がマリーにしたこと・・・それは、許されるはずのない行為だ。
なのに、「好きだ」と言ったマリーの気持ちが理解できず、靴音が部屋の中に吸い込まれるまで、僕はその場に立ち尽くしていた。
マリーと別れてから、僕の頭の中には様々な思いが交錯していた。
確かめたわけではないが、見た限りマリーは僕より7~8歳は若いはずだ。
そんな年下の女と、恋愛論を戦わせるだけの暇も時間も僕にはない。
もちろん、店に行こうなどと言う気はまったくなかった。
しかし、僕が力づくでマリーを抱いた事実は消えない。
我、関せずで、背を向けるのは卑怯な気がした。
思いは、堂々巡りを繰り返していた。
年が改まって、数日が過ぎたあるの日、僕はマリーと再会した。
ソウルの街中のCDショップの前だった。
ショーウィンドーには、たくさんのCDがディスプレイされ、大型テレビには激しいリズムに合わせて踊るダンサーの姿が映し出されていた。
その画面をウィンドー越しに見つめる女・・・それがマリーだった。
最初は遠くから、黙って見ていた。
少しずつ近づいて行って、背後から声をかけた。
「おい」
「これでも私・・・ダンサーだったの。怪我してやめたけど」
驚いて振り向くマリーを想像していたのに、マリーは画面から目を離さずに言った。
「いきなり声をかけられて、驚かないのか?」
「さっきから、ずっと私を見てたでしょ?」
「見てない・・・」
「うそ。ガラスに映ってたもの」
なんだ、気づいてたのか・・・と、がっかりする自分がおかしかった。
「志しなかばで挫折しちゃった」
マリーらしくない言い方だった。
「昼ごはんは?」
「驕ってくれるの?」
「そのつもりで聞いた」
「ミソチゲ・・・それも、思いっきり辛いヤツ」
「メシの話になったら、元気になったな」
「私、元気なさそうに見えたんだ・・・」
そう見えたから、昼ご飯に誘う気持ちになったのだった。
「行こう」と言いながら、マリーは腕を絡めてきた。
「くっつくなよ」
「いいじゃん、誰も見てないもん」
確かに、マリーの言うとおり、道行く人々は僕たちのことなど、眼中になさそうに足早やに通り過ぎて行った。
目当ての店に行くと、昼時ということもあって店内はひどく混み合っていた。
思案した挙句、「ウチに来るか?」と、僕は言った。
「へぇ~意外な発言。そう言うこと絶対に言わない人だと思ってた。料理出来るの?」
「ミソチゲならそこら辺の食堂より、うまい。どうする?」
「襲ったりしない?」
「そう言うことを言うなら、昼メシはひとりで食べろ」と、僕は言いながら、やはりマリーはあの日のことにこだわっているのか・・・と思った。
「たとえ襲われても、今はミソチゲが食べたい」
「じゃ、決まりだ。まずは市場に行こう」
「え・・・っ?買出しに付き合うの?」
「嫌ならいい」
僕はひとりで歩き出した。
「もう~!待ってよ~。ホントにおいしく作れるの?まずかったら許さないからね!」
追ってくるマリーの声を聞きながら、僕の口元に思わず笑みがこぼれた。
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