創作の部屋~朝月夜~<46話>
自宅まで仕事を持ち込むことは、できるだけ避けたいと思っているのだが、そうも言っていられない日もある。
今日も、片付けてしまいたい仕事があって、帰宅後はずっとPCの前に座っていた。
気がつくと、時計の針は午前0時を過ぎていた。
PCを閉じて、部屋の明かりを消そうとした時、かすかな物音がした。
気のせいかな・・・そう思いながらも耳を澄ませた。
玄関のドアに何かがぶつかる音。
小さな息づかい。
誰かいる・・・?
躊躇いながらそっとドアを開けてみた。
深夜の凍った風とともに入ってきたのはマリーだった。
「途中で、迷っちゃって・・・。こんな時間になっちゃった」
「どうしたんだ?」
マリーは靴を脱ぐと、ふらつく足取りでソファに座り込み、「お水をいっぱいくれない?飲んだら、帰るから」と言った。
僕は水の入ったグラスを差し出しながら、「酔ってるのか?」と聞いた。
「酔ってない」
うつろな表情でマリーは答えたが、それは明らかに違っていた。
その証拠に、グラスの水を一気に飲み干すと、マリーはソファに横たわった。
「おい」
「酔ってなんかいない・・・」
マリーは、呟くように言うと目を閉じた。
「おい」
僕がもう一度声をかけた時には、小さな寝息を立てていた。
マリーの頬を撫ぜるように、叩いてみた。
冬の夜道を歩いてきたマリーの頬は、とても冷たかった。
僕は、寝室から持って来た毛布をマリーにそっと被せて、リビングの明かりを消した。
目覚まし時計の音で、目が覚めた。
冬の朝は、布団のぬくもりが恋しくて、ベッドから出る気になれないのだが、ゆうべ遅くにマリーが来たことを思い出し、ためらう間もなくベッドから離れた。
しかし、リビングのソファで眠っているはずのマリーの姿はどこにもなかった。
ソファの上に、たたんで置いてある毛布。
その上には、小さな紙片が置かれ、「ゴメン・・・」とひと言書いてあった。
コーヒーくらい飲んで行けばいいのに・・・紙片を見つめながら、僕は心の中で呟いた。
真夜中に迷い込んできた野良猫に、ミルクもやらずに追い出してしまったような気分だった。
携帯電話の番号も、メールアドレスも教え合っていない僕たちは、実際に会わない限り連絡の取りようがなかった。
マリーに会いたいと思っていたわけではないが、なんとなく気になりながら、数日が過ぎた。
せっかくの日曜日だと言うのに、その日は朝からみぞれ混じりの雨が降っていた。
こういう日は、何もする気になれない。
パンとコーヒーで簡単に朝食を済ませると、僕はまたベッドにもぐり込みぐずぐずしていた。
マリーが来たのは、昼を少し過ぎた頃だった。
チャイムの音にドアを開けると、大きな包みを抱えたマリーが立っていた。
「昼ごはん、まだよね?」
そう言うと、マリーは僕の脇をすり抜けて、キッチンに入って行った。
包みから、取り出したものはいくつかのプラスチックの容器。
その中には、大量の惣菜が詰め込まれていた。
「料理、できなかったんじゃないのか・・・」
「おばあちゃん、直伝の日本料理よ」
「おばあちゃんは、韓国人だろう?」
「ママの真似をして作っている内に、おばあちゃんの方がママより上手になっちゃったの」
「これは・・・おばあちゃんの手作り?」
「1週間おばあちゃんのところに泊り込んで教わった。私の、手作り」
「私の」と言う、言葉を強調してマリーは言った。
「どう?」
テーブルに並べられた料理に箸を伸ばす僕に、マリーが聞いた。
「うまい」
「ほんと!よかった!ミソチゲしか作れない男と付き合おうって、決めたからには、私も料理を覚えないとって、頑張ったの」
「知ってたのか?」
「多分そうじゃないか・・・って。当たり・・・でしょう?」
僕は、苦笑いするしかなかった。
不思議なことにマリーの持ってきた惣菜を食べながら、僕は懐かしさに浸っていた。
それは、ユキと一緒に食べた会津の郷土料理を思い出したからだった。
マリーに対して後ろめたさを感じ、僕の箸はさらにせわしなく動いた。
実際にマリーの作った料理はおいしかった。
「うまい」を連発する僕に、すっかり上機嫌のマリーは、後片付けも全て引き受けてくれて、僕はソファに座って、食後のお茶が出てくるのを待っていた。
「ありがとう」
隣に座ったマリーに向かって、僕は言った。
「お礼なんていいわよ。この間、泊めてもらったお返し」
「なぜ、黙っていなくなった?」
「目が覚めたら、自分の部屋じゃなかった。どうやってここまでたどり着いたのかも思い出せなくて」
「ずいぶん酔ってた」
「合わせる顔がなくて・・・私、何かした?」
「いや」
「そう・・・よかった」
マリーは、安心したと言う様子だった。
「何かあったのか?」
「う・・・ん、別に。」
「客に絡まれた?」
「そんなことは、いつものことよ」
マリーはため息混じりに言った。
「ねえ、別れた奥さんは、韓国の人・・・よね?」
「ああ・・・」
「次に結婚するとしたら、やっぱり韓国人がいいって、思ってる?」
「その方が生活しやすいような気がする」
そう答えるのが無難だと思った。
「じゃあ、日本人とのハーフは?」
「君がそうだからか?」
「私と・・・と言うわけじゃなく・・・」
「特にこだわりはない」
「日本人に対するこだわりは?」
「なぜ、そんなことを聞く?」
僕の脳裏に、またしてもユキのことが浮かんだ。
「なぜ?」
僕は、重ねて聞いてみた。
「隠していてもどこかでバレるのよ。半分、日本人の血が入ってるって言うこと」
「それがどうした?」
真顔で尋ねる僕がいた。
「年配の客の中には、いまだに日本人に対するこだわりを持った人がいるの。汚い言葉を並べ立てて・・・。挙句の果てには、会ったこともない私のママにまで、発言が及ぶ・・・。それが、やりきれなくて・・・」
マリーはそこで一度、言葉を切った。
「私は、ママを誇りに思ってる。ママを愛したパパもね」
返す言葉を失っている僕を察して、マリーは「ごめん、つまらない話し・・・しちゃった」と小さく笑って見せた。
「そんな店、やめればいい」
僕は、マリーを引き寄せると強く抱きしめた。
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